《私の最初の晩餐》具志堅用高「食べてたら、チャンピオンにだってなれる!」 下積み時代に驚いた極上のステーキ
「最初に食べたご馳走はなんですか?」。子供の頃に母が作ってくれた料理、上京したときのレストラン、初任給で行った高級店……。著名人の記憶に刻まれている「初めて食べた忘れられない味」を語ってもらい、証言をもとに料理を再現するこの企画。今回は具志堅用高さんに、忘れられないご馳走を教えていただきました。 【貴重写真】小学生時代の具志堅用高。短パンで元気にポーズを決める姿
1981年の引退から40年以上経った現在も、具志堅用高さんの残したボクシング世界王座防衛の日本記録(13回)は、未だに破られていない。バラエティー番組などで活躍する一方、白井・具志堅スポーツジムを設立し、女子世界スーパーフライ級王者の山口直子や世界フライ級王者の比嘉大吾も輩出した。今では、赤ワインとともに平らげる思い出の晩餐とは──。 * * * 石垣島は、ぼくが子供の頃はずっとアメリカの軍政下ですからね。貧しかったですよ。家の屋根は茅葺だったし、もちろんエアコンも冷蔵庫もなし。トイレは、家の外の掘っ立て小屋。ちっちゃい電球をつけるだけの電気と水道はあったね。 お父さんはカツオの一本釣り漁師で、お母さんはそのカツオを加工する工場で働いていて。食べるものはほとんど自分たち、ぼくと姉と兄弟で集めてきてたの。近くに借りていた畑でゴーヤーやトマトを育てて、魚介類は海とか川でとるのさ。 グルクンだったら唐揚げ、大きなうなぎだって1時間以上も格闘して獲ったよ。簡単に手に入っておいしかったのは、ウニ。だから海のものをお店で買ったことは、ほとんどなかったと思う。それに、お母さんが帰ってくるときには、カツオの頭と尾っぽがバケツにどっさり。カツオ節工場だから、使わない部分を従業員にくれるわけさ。そういうのは、煮込んでスープにしてね。 うちではアヒルと豚を飼っていたけど、お肉はお祝いのときだけ。アヒルは小さいけど、それだって特別な日にしか潰せないさあ。だから運動会は楽しみだった。ぼくはかけっこは得意だったし、組体操もいちばん上。だから家族は大喜びで、重箱の中にはアヒル。豚はほとんど食べられないよ。市場で売ってお金にするから、自分たちで食べるのはお正月ぐらい。