なぜ谷崎潤一郎は妻を友人に「譲渡」したのか?理由を知ると心がザワつく…
谷崎はすでに1921(大正10)年の「小田原事件」(編集部注/妻の千代を友人の佐藤に譲る約束を破り、谷崎は佐藤から絶交状を叩きつけら、その後10年に渡り友人関係を断つことになった事件)で、千代を佐藤春夫に譲ろうと試みているのであり、1927(昭和2)年に人から妻を譲られて再婚した妹尾健太郎の話に、人生のヒントを得たわけでもなかろう。 しかし、この話題を取り上げた、行方不明の小説『お栂』は谷崎のこの主題に対する大きな関心を証し立てているだろうし、あるいは自らの「細君譲渡」の弁明のような気持ちもあったのかもしれない。それほどに「細君譲渡事件」は世間の非難のうずを呼んだ。 ● 当時は刑事罰の「姦通」が批判されたが いまの価値観では「譲渡」こそ大問題 「細君譲渡事件」は、「譲渡」という部分よりは、「姦通」だ、「不倫」だという点が問題視されていたことについてだが、それは世間の誤解だと、谷崎自身、弁明している。 「私の妻が私とわかれて、佐藤夫人であるについては、佐藤が終始私の家に出入りしてゐたので、妻との間に間違いがあつて、私とわかれ、佐藤のところに行つたと思つてゐる人が多いが、そんなことはなかつた」(「佐藤春夫のことなど」323頁)。
しかし、ここで谷崎が言っているのは佐藤春夫と千代の肉体関係のことで、すでに佐藤と千代の入浴についての文章で言われていたとおり、それはなかったと主張しているのである。 そのことの真偽はともかく、2人の間に、長年にわたるニュアンスの変動はあったものの、恋愛感情が流れていたことは疑いなく、これを広義に「姦通」と言われてもやむをえないところではあろう。逆に、ここが突かれて痛いところなので、必死に弁解しているのだとも取れる。 このように谷崎潤一郎・佐藤春夫・千代をめぐる「事件」が、「細君譲渡」ということよりは、「姦通」として問題化されていたのは、もちろん、これが姦通罪も存在する時代であって、不倫行為は厳しく指弾される傾向があったからに違いない。 それに比べれば、今日では姦通に対するまなざしははるかに緩やかになっている。かわりに女性解放思想やフェミニズムと連動して、女性をモノ扱いする「妻譲渡」という事態への批判が高まっているのだと解釈できる。
ヨコタ村上孝之