なぜ谷崎潤一郎は妻を友人に「譲渡」したのか?理由を知ると心がザワつく…
日本でも戦国の世にはこのような例は多々見られた。福沢諭吉は『日本婦人論』の中で、そうした例を日本史から多数拾いあげて例示している。 「木曽義仲の愛妾巴御前は和田義盛に再嫁し朝比奈(編集部注/朝比奈義秀)を生みたりと云ひ伝へ、織田信長の妹は浅井長政に嫁して三女を生み、長政が信長に亡ぼされて後は其三女を携へて更に柴田勝家の夫人と為り、秀吉は勝家を殺して其三女中の一を取りて妾と為したり、武田信玄は諏訪頼重を亡ぼし其女を取て妻と為し勝頼(編集部注/武田勝頼)を生みたり」(112頁)。 中山太郎の『売笑三千年史』によれば、室町から戦国時代には「女房狩り」というものが横行したそうで、中山は、力ある武将が人に美しい妻あると聞くと、兵を送り込んで攻め滅ぼし、女を自分のものにした事例を多数挙げている(第6章第1節「将軍の女房狩りと執権の宮廻り」)。 ● 谷崎の未発表小説のネタ元は 友人の「寝取り」だった 実は、谷崎自身は、妻が譲られている実例をすぐ間近に見ている。
神戸市岡本在住時代の谷崎潤一郎を蔭で支えた友人妹尾健太郎と君子夫妻がそれで、秦恒平はその間の事情を次のように説明している。 「[谷崎が妹尾夫妻を描いたらしい未発見の小説]『お栂』の行方は今や『行方不明』という以外にない。[原稿は]多分谷崎が君子夫人の生い立ちを聴いて、そのまま当時の妻[丁未子]に筆録させたものだろう。 この妹尾夫人は或る商家の若旦那と行儀見習いの娘との間に生まれ、生後まもなく貰い子に出されたものの、養家も零落、十歳にならぬ前に自分の意志で狭斜の巷に身を寄せた人だったという。 芸もよくおぼえ才覚も人気もあったことから、さる貿易商社の人に落籍されて結婚し子供も生まれたものの、夫が浮気する一方その頃通訳兼社員だった年若い妹尾健太郎と知り合って恋愛、昭和2年ころ円満にその夫から君子夫人は妹尾に〈譲られ〉[※秦による傍点をヤマ括弧で表記]再婚したのだという」(『神と玩具との間 上』17頁)。