「普通」って何? ADHD本人、家族の葛藤と苦悩を映画化した、北 宗羽介監督と考える 【専門医師の解説つき】
病院には連れて行きたくない
北さんは、発達障害の疑いがあるのに、病院に連れて行かない親に疑問を持ちました。 「先日、精神科の先生と対談したのですが、『発達障害』という名前がついてしまっているので、子どもを病院に連れて来ない親御さんがたくさんいるそうです。そこで、その先生が、『子どもの頃におかしいと思ったら診ます』という、病院とは違うシステムを作ったのですが、あまり来なかったそうです。親御さんは、幼い子どもに『障害』という名前の病名がつくことが耐えられないでしょうし、いつか治るのではないかという淡い期待も抱くのでしょう。子どもが小さければ小さいほどそういう親御さんが多いらしく、施設に来ない。『発達障害』という名前がつくことで、周りの人に『この子は障害を持っている子だよ』と見られてしまう。だから病院には行かないという人も多いようです。」 我が子を精神障害者だと思われたくないという気持ちと不安な気持ちがせめぎ合うのですが、そこには何が必要なのでしょうか。 「先生は、いきなり医療にかかるというと身構えてしまうので、カウンセリングを受けられる相談所みたいなところがあったらハードルが下がっていいのではないかとおっしゃっていました。自治体が主導して、なるべくハードルを下げる仕組みや機関を作ることが望ましいと思います。」
グレーゾーンの葛藤
映画では、朱里と絃の両親が目の前で起こっていることを受容しきれず、本人に辛く当たってしまうシーンがあります。 「朱里の方は、それほど重度な発達障害ではないので、障害者手帳も貰えません。だから、発達障害と診断されているにも関わらず、家族は、『全然普通なんだから、甘えていないでちゃんとしなさい』と言ってしまいます。絃の方は、親が発達障害そのものを否定するというか、発達障害と診断されているのに、『あなたは発達障害ではない、ちゃんとしなさい』と否定してしまう。要は、どちらの両親もあまり現実を直視したくないのです。」 確かに、彼女たちのようなグレーゾーンの人は、家族も「発達障害ではないかもしれない」と期待してしまうかもしれませんし、「ちゃんとしなさい」といういらだちを感じることもあるでしょう。 「重度だったら分かりやすいかと思います。多動で落ち着きがないとか、物忘れが激しすぎるとか、たぶん対処の仕方があると思います。しかし、グレーゾーンの人たち、すごく軽い症状の人たち、いわゆる普通の人と病気の人の間にいる人たちは、どちらにも区分けできてしまいます。世の中にはそういう人が10%くらいいると見られていて、その人たちが社会に馴染めなくて苦しんでいます。だからと言って、はっきり精神障害者と認定されるとあまりいい仕事に就けないという雇用の問題もあるので、あえて診断を受けない、障害者手帳を貰わないという人も少なくないでしょう。」 朱里と絃は発達障害と診断されていますが、学校では普通級に入っています。二人とも普通級にも馴染めず、かといって重度というわけでもありません。それゆえに居場所がありません。 「学生の場合、重度であれば特別支援学級で対処できますが、軽度の人は通常の学級に入れられます。そこでは、学校の先生やクラスメートの理解を得られなかったり、誤解されたりすることがあります。『お前なんだよ、困った奴だな』ということになり、排除されたり特別な目で見られたりしてしまいます。そういう問題がグレーゾーンの人には多いのではないかと思います。」 朱里の通う学校は偏差値が低め、絃が通う学校は進学校。それぞれ周囲の反応も違います。 「たぶん、朱里の学校の方が陽性というか、言葉は悪いですがあまり頭の良くない学校ですが、多様性があります。でも、そういうところに来る子たちは強く当たってしまう傾向にあります。ネットの世界でも、『本当にお前、障害持っているのか』とか『障害者だろ』とか直接的で強い言葉を軽い気持ちで言ってしまう。絃の学校は頭のいい学校ですが、皮肉を言うとかネチネチした感じのイジメになるのかなと思います。発達障害に限らず変な子がいると、『お前、ガイジ(障害児)だろ』とか汚い言葉を平気で言う。言っている本人に悪気はなく、軽い気持ちで口にするのですが、言われた側はグサっと胸に刺さります。」 「普通」と「障害」の境界で苦しむ発達障害の人たちと現実を受け入れたくない家族。解決の糸口はあるのでしょうか。後編では、ニューロダイバーシティや明るい発達障害の人にも話を広げます。