日本人初のメジャーリーガー村上雅則は「誰も行かないでほしいと思っていた」60年前にアメリカで成功できた秘訣
アメリカでの成功に必要な精神力
現在では数多くの日本人メジャーリーガーが誕生している。 ある者は大きな成功を収め、ある者は日本での輝きを発揮することができずに悔しい思いを抱いたまま帰国することとなった。 改めて村上に問う。 ――アメリカで成功する人と、そうでない人との違いはどこにあるのですか? この問いに関しても村上の言葉に迷いはなかった。 「野球の実力が大切なのは当然のこととして、それ以上に精神的なものが大きいと思います。やっぱり、文化の異なる生活の中に自ら積極的に入っていけるかどうか? 私なんて、“入るな”って言われても、どんどん入っていっちゃうタイプだったから(笑)。そこで大切なのは言葉。私の場合は通訳なんていなかったけど、それでも会話の中に積極的に入っていった……」 それまで、笑顔を交えながら楽しそうに受け答えしていた村上の表情が引き締まる。口調にも熱が帯びてくる。 「……もしも内容がわからなかったら、首をひねりながら“What you say?”なんて言ってみる。そうするとわかりやすい言葉で置き換えて話してもらえる。 毎日しゃべっていると少しずつ単語も覚えてくる。まずは単語を2つ並べてみる。次に3つ並べてみる。そうすると、だんだん深い内容の会話もできるようになってくる。 文法なんか気にしなくていい。主語や述語なんて意識しなくていい。その気概が大切なんじゃないのかな?」
今もなお残る志半ばで帰国した悔しさ
村上が渡米したのは、第二次世界大戦の終結から20年が経過する頃だった。 日本では、高度経済成長が本格化し、世界で確たる地位を築きつつある頃だ。まだまだ日本人の地位は低かった。1ドル360円という経済格差もあった。 そうした中で、成人する前に単身で海を渡り、独力で生き抜いたのが村上だった。さまざまな不安に押し潰されそうになる中で、彼は自分の左腕で居場所を作り上げた。 アメリカから帰国してしばらくした頃、世話になっている人物に招かれて夕食をともにした。このとき、「何か歌を歌ってくれないか」と頼まれた村上が静かに口ずさむ。 「I left my heart in San Francisco……」 トニー・ベネットが歌って62年に大ヒットした曲である。邦題は『想い出のサンフランシスコ』。歌っているうちに村上の頬を涙が伝う。 海を渡った青年は、アメリカでの手応えをつかんでいた。けれども、志半ばで帰国することになった。実力不足や故障のためではない。「まだまだ自分は成長できる」という手応えを覚えていただけに悔しかった。無念だった。すでに80代を迎えた村上は言う。 「あのときの私には、ああするしかなかった。鶴岡さんを恨んではいません。入団時の約束をきちんと守ってくれたんですから。ただね……」 一拍おいて、村上はつぶやいた。 「……ただ、あのときもしも鶴岡さんが、“よし、わかった。お前が納得するまでアメリカで頑張ってこい!”って言ってくれていたら、私はどんな人生を歩んでいたのかな、そう考えることはしばしばありましたね……」 感情のこもったひと言が静かに響き渡った――。
長谷川晶一