物語、俳優、空間が絶妙に調和する傑作舞台『デカローグ』絶賛上演中 デカローグ5『ある殺人に関する物語』&デカローグ6『ある愛に関する物語』
脇役陣の登場方法が独特である点は、今回の舞台版「デカローグ」の大きな特長である。殺害されるタクシードライバーを演じた寺十吾(じつなし・さとる)は、死刑執行シーンで教誨を担当する神父として再登場する。名越志保は、団地内の映画館でチケット売り場の冷淡な女を演じたのを手始めに、裁判長として弁護士ピョトルを諭したり、死刑場立ち合いの医師に変貌したりし、デカローグ6ではトメクの友人の母親マリアを演じ、疎遠な息子の代わりにトメクと同居している。また斉藤直樹は、マグダが同時につきあっている三人の恋人をメイク、衣裳で変装しながら一人で器用に演じ分けていて、ニヤリとさせられた。もちろん、デカローグ1~4全話で登場した天使のような無言の人(亀田佳明)は、今回もあらゆる姿に変化しながら主人公たちの脇を物言わずに通り過ぎていく。亀田佳明がさまざまに演じるのは、土地に宿った残留思念のようなものだと思われる。 このように、一演者が複数の役を演じること、ポリヴァレント(複数のポジションをフレキシブルにこなせる能力)に変容していくことは、つまり人間存在の代替性、相互置換性、可塑性を指し示しているだろう。わたしたち人間は、ひとりひとりがかけがえのない存在だと思いたい。しかし惑星レベルで俯瞰した場合、わたしたち人間は川底に沈む小石ていどの差異しか持たないのかもしれない。「デカローグ」という作品はそんな冷酷な真理をもってわたしたちを脅かしつつ、一方で小石のひとつひとつのかけがえのなさに回帰しようとしているのではないか。 デカローグ1~4について書いた前回原稿で筆者は、「デカローグ」舞台上演版の真の主人公は、団地の建物そのものだと述べた。ヨーロッパ演劇シーンで高い評価を得てきた舞台美術家・針生康(はりう・しずか)によるコーナーキューブ状の美術セットが、社会主義末期の庶民の暮らしを、抽象的かつ可塑的に炙り出していた。しかしデカローグ5『ある殺人に関する物語』では団地のプレゼンスは後景に退いて、その軒先スペースが無造作に映画館の窓口となり、殺人現場となり、裁判所となり、処刑場となっていく。住居としての機能が剥奪され、人間ばかりでなく、場所もさしたるセットチェンジさえないままに代替性、相互置換性、可塑性が強調されている。一方、デカローグ6『ある愛に関する物語』ではコーナーキューブ状の美術セットが再び住居としての機能を回復し、隣接した棟の窓と窓という劇的な視線劇を現出せしめる。