「おっ、ゲット・トゥゲザー!」の一言から始まった「はっぴいえんど」と大瀧詠一の『A LONG VACATION』。伝説のロックバンドと不朽の名作の原風景
日本のポップス史に残る名盤『A LONG VACATION』を作った大瀧詠一は2013年12月30日に亡くなった。彼が世に送り出した不朽の名作と、そしてかつて所属していた日本語ロックの先駆けとなったロックバンド“はっぴいえんど”の逸話を紹介する。 【画像】細野晴臣が初めて会う大瀧詠一を知るための手がかりにしたシングル盤レコード
細野晴臣が大瀧詠一と出会うきっかけを作った中田佳彦
細野晴臣と大瀧詠一が初めて出会ったのは1967年の春先のこと。きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋。立教大学のキャンパス内の待ち合わせ場所で、細野は指定されたベンチに座っていた。立教高校時代からの友人から、「経済学部にお前みたいに音楽にうるさいやつがいるから紹介するよ」と言われていたからだ。 やがて友人に連れられてやって来た男は、ポツリと「中田です」と名乗った。それからお見合いのような形で、ボソボソと探り合うような会話が始まった。 「いまどんなの気に入ってるの?」 「うーん、ポール・サイモンなんか、けっこう」 おっ、こいつはできるな。 『ちいさい秋みつけた』『めだかの学校』『夏の思い出』などの作曲家、中田喜直の甥にあたる血筋に生まれた中田佳彦はギターが上手で、アメリカのソフト・ロック系にも詳しかった。 おたがいの音楽への関心が分かって意気投合した二人は、サイモン&ガーファンクルの研究をしたり、レコードを聴いたりする勉強会的なサークルを始める。ロック以外のさまざまな分野の音楽にも通じていたので、細野は中田という仲間を得て音楽のフィールドが広がったことを実感していた。 ある日のこと。そんな中田が「めちゃくちゃ凄いマニアがいるんだ」と、その友達を勉強会に連れて来ることになった。 「相当できる人物」と聞かされた細野は、自宅でどのように迎えたらいいのかと考えて、数日前に買ったばかりのシングル盤をステレオの上に目立つように置いた。
大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉
約束の時間が来て、玄関から「こんにちは」という声が聞こえると、まもなく中田が顔を覗かせた。そして長髪をマッシュルーム・カット風にした目つきの鋭い男が続いて部屋に入ってきた。 細野はひと目見て、「ビー・ジーズみたいなヤツが入って来た」と思ったという。だが、男は部屋に入るなり、細野には目もくれずステレオに向かって思わず声を上げた。 「おっ、ゲット・トゥゲザー!」 その瞬間、細野の目はギラッと光ったに違いない。 まだ日本ではそれほど知られていないアメリカのフォーク・ロック・バンドの「ヤングブラッズ」を知っているかどうか、それは細野にとって相手を知る手掛かりだった。 「おっ、ゲット・トゥゲザー!」という一言で、「この男とは何かをやることになりそうだと」という予感が湧いたという。 男の名前は「大瀧詠一」。4月から早稲田大学文学部に入学するという岩手県出身の18歳。ヤングブラッズのアルバムは持っていたが、日本盤のシングルを見たのは初めてだったのだ。 「大瀧くんは見るからにビー・ジーズなのね。髪型がマッシュルームぽいし、着てるものもちょっとブリティッシュ系っていうかグループサウンズ的な。ビージーズの歌を歌うとそっくりなんですよ。ロビン・ギブって人にね。でも本当は違うんですよね、根っこにあるのはプレスリーだったりね」 ちなみに大瀧はその頃、本当にビー・ジーズのファンクラブの会員だった。”ビー・ジーズみたいなヤツ”という細野の第一印象は、見事に的中していたのである。 それからの1年間。3人はお互いに行き来しながら定期的に会って、熱心に音楽の道を究めていくことになる。