「局部を握らされ、お尻に入れられそうになった」小1で“性的虐待”を受けたことも…“壮絶な虐待家庭”で育った男性(31)が語る、児童養護施設に入った経緯
――それから児童養護施設に入所されたのですか。 ブローハン そうですね。僕が入ったのは70~80人くらいの子どもたちが住んでいる施設で、学習室があったりホールや小さい庭があったりと、学校のような環境でした。僕は15人部屋に入ったんですが、一番下は2歳、一番上の先輩だと高校3年生と年齢差がすごくって。先輩たちは怖かったですけど、その部屋の指導担当の先生がもっと怖かったですね。 その先生の足音が聞こえた瞬間、それまで騒がしかった子どもたちが一斉に部屋に入ったり。太い木の箸なんかでよく頭を「パーン」と叩かれたりもしました。
児童養護施設に入所してから「寝られるようになった」理由
――施設に入ったことで、心境の変化などありましたか。 ブローハン 安心感はありましたね。一番大きかった変化は、よく寝られるようになったことでした。寝る時って無防備になるじゃないですか。なかなかそんな状態で、人や空間を信頼して寝ることがずっとできなかったんですけど、3年くらいかけて寝られるようになっていきました。 あとは、3食ちゃんと食べられることが嬉しかったです。 ――お母さんは、面会にきてくれていましたか。 ブローハン だいたい年に2、3回、3ヶ月から半年に1回くらいの頻度できてくれました。メールで「元気?」とやりとりすることもありました。中学2年生のときにお母さんが亡くなったのですが、その1年前までは面会にきてくれていましたね。
面会に来てくれていた母親が乳がんで他界
――お母さんはご病気か何かで亡くなられたのですか。 ブローハン 37歳で、乳がんで亡くなりました。最後に会った時に「フィリピンに一度帰って手術をする」と話していたのですが、発見が遅れてしまったこともあり、手遅れだったようです。 最後に面会に来てくれたとき、僕は駅の改札まで一緒に行って見送ったのですが、お母さんがホームに向かう階段を登って行くときに不思議な感覚があったんです。お母さんの周りが白くなって、動きがスローモーションのように見えたとき、僕は「お母さんが遠くに行ってしまう、これが最後になるんじゃないか」と強い不安を覚え、涙が止まらなくなりました。結局それが最後になってしまったのですが。 ――お母さんの死を知ったときは、どういった心境でしたか。 ブローハン 最初は、時が止まったような感じがありました。現実味がなくて、心の中が急に静寂になったような。お母さんの死については叔母から聞いたのですが、それまでにお母さんとやりとりしていたメールやビデオメッセージなどで、調子がどんどん悪くなっていることはわかっていました。 抗がん剤の影響で髪の毛は抜けてしまっていて、声が弱々しくなるお母さんと互いに泣きながらしゃべっているとき「もうダメなのかも」と、お互いに悟っている感じでした。 だから、死の事実を知らされたあとすごく長い時間をかけて、それまで抑え付けていた感情が爆発してしまって。
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