「改革に身をささげた」「今の大阪市改革の原型」孤高の市長に悼む声 群れずにしがらみ断ち切り…
平成15年から19年にかけて大阪市長を務めた関淳一氏が、亡くなった。88歳だった。在任中は、職員厚遇問題などの対応に奔走。改革に尽力した関氏の死に、関係者から悼む声が相次いだ。 関氏は大阪市大医学部卒の医師。市立病院の副院長などを務めていたが、市局長や市助役(現在の副市長)を経て、大阪市長に就いた。 就任後、ヤミ年金・退職金支給や市職員へのスーツ支給といった職員厚遇問題が発覚。福利厚生費の削減を打ち出し、職員の新規採用凍結などの改革案を取りまとめた。17年には任期途中で辞職。出直し市長選で再選し改革を推し進めた。 市長時代の関氏のもとで最高幹部の一人だったOB職員は、関氏の死について「本当に残念。いまの大阪市改革の原型を作った人だろう。市役所を取り巻く、しがらみを断ち切ることを使命として取り組んでいた」と振り返った。さらに「退任してからの態度もすごかった。市関係の人たちと群れるようなことをしなかった。改革に身をささげた孤高の人だった」と偲んだ。 現職の大阪市の幹部職員も関氏について「もともと医師。行政マン出身ではなかったからこそ、職員厚遇問題で切り込むことができた」と指摘。「冗舌ではなかったが、肝心なところで的確に指示をしていた」と話していた。 元側近たちによると、関氏は、生真面目で実直な性格で信じる道を黙々と進むタイプ。半面、派手なパフォーマンスは得意ではなかった。 市長退任後は健康増進の取り組みにかかわりたいとして、日本WHO協会の理事長に就任。その後、取材などで大阪市政について聞かれたこともあったが、関氏は「辞めた者がごたごた言うたら、当事者が困るだけやからな」とノーコメントを貫いていた。