『ブギウギ』笠置シヅ子に憧れたのちの大スター美空ひばり 共通するステージへの強い執念
「流行歌は大衆の好むところにピントが合わないと終わりですからね」 NHK連続テレビ小説『ブギウギ』第117話での羽鳥(草彅剛)の言葉がグサグサと胸に刺さる。「もはや戦後ではない」と経済白書にも記され、新しい時代に突入した昭和30年代、スズ子(趣里)の人気もブギブームも下火になり始め、世間では若手の有望株である水城アユミ(吉柳咲良)に注目が集まりつつあった。テレビ局でスズ子にばったり会った水城は、自分がスズ子の大ファンであることを明かした。 【写真】『ブギウギ』に新たに登場した吉柳咲良 スズ子のモデルである笠置シヅ子が活躍した時代にも、シヅ子に憧れ、のちの大スターになった人物がいる。のちに「歌謡界の女王」と呼ばれ、「愛燦燦」「川の流れのように」の大ヒット曲で知られる美空ひばりである。ひばりはシヅ子のブギの物まねでブレイクし、別名「ベビー笠置」と言われていたのだ。 ひばりは1937年(昭和12年)生まれ。両親は魚屋を経営していたが、歌が好きで、家にはレコードがあったという。ひばりもその影響を受け、幼い頃から歌謡曲や流行歌を歌うことが好きだったようだ。娘の歌に人を惹き付ける可能性を見出した母親の努力もあり、ひばりは8、9歳頃から人前に立って歌うようになる。 シヅ子に服部良一という歌の師匠がいたように、ひばりには川田晴久という歌の師匠がいた。川田は自身も昭和期を代表するエンターテイナーだったが、まだ無名で少女という言葉が似合うひばりの才能を見込んで、そばに置いて可愛がり、それに答えるようにひばりも川田のことを「アニキ」と呼んで懐いていた。ひばりの歌い方は川田とよく似ているとされ、その影響が見て取れる。 シヅ子は持ち歌を自分以上に上手く歌うひばりのことを早くから知っており、時には自分の楽屋にひばりを呼んで、遊び相手をし、かわいがったというエピソードが残されている(※)。 ひばりはシヅ子と同じように結婚を機に仕事をセーブしようとした時期もあるようだが、精力的にステージに立ち続け、病気で体調が悪い中でも公演を行うことがあった。その中のひとつが東京ドームで行われたコンサート『不死鳥 / 美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって』である。この頃、ひばりは肝臓を悪くしており、開演直前まで点滴を受けていたほどだった。だが、観客には元気な姿を見せたかったのだろうか、本番ではまさに不死鳥と呼ぶべき輝きを見せ、できたばかりの東京ドームを沸かせたのだった。ひばりが生涯でレコーディングした曲数は通算1500曲、オリジナル楽曲は517曲と言われており、昭和から平成にかけての歌謡界に大きな影響を残した。 ひばりが人気を博してきた頃、シヅ子は女優活動へ専念した。シヅ子は歌うことをやめてしまったが、ひばりのステージへの執念ともいえる強い思いは、どんなことがあっても自分にできるエンターテインメントを届けたいと奮闘したシヅ子にも感じられるものだ。シヅ子に憧れていたひばりは、エンターテインメントに対する熱い気持ちも自然とシヅ子から受け継いだのかもしれない。 『ブギウギ』では、驚くべきことにスズ子が大阪時代に所属していた梅丸少女歌劇団(USK)のピアニスト・股野(森永悠希)が再登場。水城は、その股野を「お父さん」と呼んだ。なんと水城はスズ子の憧れであった礼子(蒼井優)と股野との間に生まれた子だったのだ。USK時代、礼子のようになりたいと思っていたスズ子が、羽鳥に出会い、礼子超えろと言われて、戸惑っていたことが思い出される。スズ子の運命は巡り巡って、形を変え、また礼子と交差したのだ。何とも不思議な縁である。憧れている人をどこかで追い越さなければ、時代に必要とされるスターになることはできない。これからのスズ子と水城、2人の関係性に注目だ。 参考 ※『ブギの女王・笠置シヅ子-心ズキズキワクワクああしんど-』砂古口早苗(現代書館/2010年)。
久保田ひかる