明治新政府がやったのはフランスの猿真似だった…国宝級の名城を次々と処分した「維新の三傑」の浅学さ
■古写真に見る城の荒み具合 このとき全国の城は、すべてが府県から移管されて兵部省陸軍部の所管となり、明治5年(1872)に兵部省が陸軍省と海軍省に分離されると、陸軍省の所管になった。しかし、全国に城は、事実上の城であった陣屋や要害を加えると300以上もあった。それだけの城を兵部省(陸軍省)が管理しきれるはずがない。 明治初年に撮影された古写真が残されている城も多いが、たいていは天守や櫓、門や塀などの漆喰がはがれ、時に瓦が落ちそうになっていたり、屋根が破損していたりする。版籍奉還により、各藩から城を修復する資金が失われたのに続き、兵部省(陸軍省)の管轄となって、ほぼすべての城が放置された結果、どの城もあっという間に荒んでしまったからだ。 このように全国の城を管理しきれない陸軍省は、結局、軍隊の基地として利用可能な城と、不要な城とに分けることにした。徴兵制にもとづく常備軍の基地として使用できそうな城は今後も使い、使えそうにない城は処分しようと考えたのである。 この時点ですべての城は、陸軍省の所管で国有財産だったので、不要になれば大蔵省が処分する必要があった。そこで、陸軍省と大蔵省の役人が各地の城を調査し、明治6年(1873)1月、当時の正院(太政官職制の最高機関)が、全国の城を陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分け、両省に通達した。 ■フランスのマネはできても精神は学ばない このとき「存城」とされたのは42の城と1つの陣屋にすぎなかった。しかも、「存城」も保存されるとはかぎらなかった。「存城」も「廃城」も城を維持、保存することとは無関係の概念で、「存城」も国が維持する必要がないと認められれば取り壊すことができ、兵営建設などのために必要なら、自由に改造したり取り壊したりすることができた。 弁護士で城郭研究家の森山英一氏によれば、城を存城と廃城に分けた背景には「城郭を財産とみるフランス民法の影響があった」という(『存城と廃城』)。明治政府はフランスの影響のもと、城郭を軍用財産として使えるか使えないかだけで評価し、使えなければ処分するという性急な判断を下したのである。 残念なのは、フランス民法の影響は受けながら、歴史的環境を積極的に保護するフランスの精神からは、なんら影響を受けなかったことだ。フランスではすでに19世紀初頭、フランス革命で被害を受けた建造物や美術品の保護が課題になり、以後、フランスらしい建築の保護を核にした歴史的景観の醸成に力が入れられてきた。 一方、明治政府は、城郭をたんなる封建時代の残滓と決めつけた。ことに城は、自分たちが倒した幕藩体制の遺物だという考えに引きずられたと思われる。だから、城を文化的価値判断の対象にならない財産に置き換え、処分を進めていった。