北海道の戦没者遺児が定年後の人生で、硫黄島に何度も渡った理由
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
第二の人生、遺骨収集に執念
三浦さんは定年まで「静的」なサラリーマン人生だったのに対し、自由な時間を手に入れた第二の人生はとことん「動的」だった。 定年後にのんびりと人生を過ごす人が多い中、三浦さんは一つのことに執念を燃やした。それが硫黄島の遺骨収集事業への参加だった。1995年、63歳で初参加して以来、ほぼ毎年、硫黄島に渡った。三浦さんは、ほかの団員の目には「執念の人」として映った。 現地で作業を共にした戦没者遺児の桑原茂樹さんは、こんな姿を目にした。 「地下壕内の作業は1番前がスコップを振るう役目で、2番目以降はバケツリレーです。だから1番前の人の労力が突出して大きい。1番前の人は5分、10分で交代して、バケツリレーの最後尾に加わり、今度は2番目が1番目に繰り上がってスコップ作業を行う。その繰り返し。バケツリレー作業が休憩に入り、再び始める際は、先頭の人は最後尾に行くはず。なのに三浦さんはまたスコップを持って1番目に行くんです。最高齢なのに、ですよ」 現地での執念ぶりが伝わる話を、僕はほかにも知っている。その一つは「碑」にまつわるエピソードだ。 三浦さんは2002年、父がいたと思われる航空隊の地下壕の入り口に鎮魂の石碑を建てた。石には「防人之碑」と刻んだ。高さは1メートルに満たない。それでも70歳を超えた体で運んだのは、執念の一言と言えるだろう。三浦さんは数年前、別の場所に碑を移設した。壕付近はすぐに雑草に覆われてしまう場所だったためだ。新たに設置したのは、地熱の影響で草木が生えにくい天山慰霊碑の近くの場所だった。天山慰霊碑は、収集団が来島時と離島時に訪れる場所なので、その際に参拝できる利点もあった。 「執念の人」だった三浦さんは、こちらから質問しない限り、自分の胸の内を積極的に話す人ではなかった。書斎には、詩人で書家の相田みつをさんの詩が飾られていた。僕が訪問した際にいつも目にしたその詩は、三浦さんの心を表していたのではないかと、今になって思う。 「ひとつの事でも」という詩だった。 ---------- ひとつの事 でもなかなか 思うようには ならぬもの ですだから わたしはひとつ の事を一生 けんめいやって いるのです ----------
酒井 聡平(北海道新聞記者)