蒙古民族を操り人形にするため、清王朝は勇猛な戦士を敬虔な仏教徒にした
日本の3倍という広大な面積を占める内モンゴル自治区。その北に面し、同じモンゴル民族でつくるモンゴル国が独立国家であるのに対し、内モンゴル自治区は中国の統治下に置かれ、近年目覚しい経済発展を遂げています。しかし、その一方で、遊牧民としての生活や独自の文化、風土が失われてきているといいます。 内モンゴル出身で日本在住の写真家、アラタンホヤガさんはそうした故郷の姿を記録しようとシャッターを切り続けています。内モンゴルはどんなところで、どんな変化が起こっているのか。 アラタンホヤガさんの写真と文章で紹介していきます。
モンゴル仏教は、チベット仏教から由来する。1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、チベット仏教4大宗派の1つ、サキャ派がモンゴル軍に協力し、チベットを支配した。 さらに、チンギスハンの孫であるクビライが即位すると、サキャ派のパクパが国師に任命され、仏教がモンゴル帝国の国教となった。この時代において、モンゴル高原の原始的な宗教であるシャーマンが衰退し、仏教と融合されてきた。 そして、16世紀にモンゴルの有力な指導者だったアルタンハンが当時のダライ・ラマ3世に「ダライ・ラマ」号を与え、モンゴル高原に仏教がさらに浸透し、普及するようになった。因みにダライはモンゴル語で海を意味する。アルタンハンは当時、明朝から亡命してきた白蓮教徒、災害から流れてきた農民などを積極的に受け入れ、彼らに寺と中国式の町の建設を命じた。そのとき建設された町が、現在内モンゴル自治区の政治、経済の中心フフホト市になり、発展を続けている。
満州族の清王朝はモンゴル民族に対して、仏教の普及を国家的な戦略として行った。ある皇帝が「十万人の兵隊を養うよりも寺一つ造れ」と述べたことが、有名な話として、後世に伝わっている。 モンゴル民族を完全に支配するため、仏教を通して、精神的に支配した。勇猛な戦士だったモンゴル人は敬虔な仏教徒になることで、昔の戦士の魂を失い、清王朝の操り人形になったと言われている。そして、男子を積極的に寺に送り出すことにより、人口が激減しただけではなく、労働力が大幅に減り、それによって、モンゴル社会の生産力が低下し、経済発展が止まった。(つづく) ※この記事はTHE PAGEの写真家・アラタンホヤガさんの「【写真特集】故郷内モンゴル 消えゆく遊牧文化を撮る―アラタンホヤガ第7回」の一部を抜粋しました。 ---------- アラタンホヤガ(ALATENGHUYIGA) 1977年 内モンゴル生まれ 2001年 来日 2013年 日本写真芸術専門学校卒業 国内では『草原に生きるー内モンゴル・遊牧民の今日』、『遊牧民の肖像』と題した個展や写真雑誌で活動。中国少数民族写真家受賞作品展など中国でも作品を発表している。 主な受賞:2013年度三木淳賞奨励賞、同フォトプレミオ入賞、2015年第1回中国少数民族写真家賞入賞、2017年第2回中国少数民族写真家賞入賞など。