《ICUで眠る師匠の人工肺を外した日》笑福亭笑瓶さんを看取った弟子が明かした最期「『今までごめんな』搬送直前まで会話していたのに…」
「師匠に繋がれていた管が外され、先生が時計を見て朝8時頃に『ご臨終です』と。師匠の最期を奥さんと一緒に立ち会い、奥さんは泣きながら師匠の顔を撫でて、『笑助くんも触ってあげて』と。それまで僕はずっと手を握り、弟子が師匠の顔を触れるなんて……と躊躇しましたが、尊敬する師匠を前にたまらず、顔を触らせていただきました。いろいろな言葉を掛けたかったのですが、泣きながら『師匠、ありがとうございました』の感謝の言葉しか出てきませんでした」 生前、笑瓶さんは誰にも語ることなく、長年に渡って福祉施設への寄付を続けていた。笑瓶さんの死後、大阪府肢体不自由者協会の理事長は次にようにコメントしている。 《昭和57年から「渡士洋」の名前で毎月多額のご寄付をいただいておりました。その期間は、40年にもおよびました。(略)笑瓶さんが27歳という若さで、寄付をしようと思って、実際に寄付を継続されたことは、感謝しかないです》 笑助氏が振り返る。
「以前、師匠の奥さんから寄付していることを少しだけ聞いたことがありました。若い頃から社会福祉活動には興味があったみたいで、『自分は好きな仕事ができてありがたいけど、世の中にはそうじゃない人もいる。本当は自分がもっと足を運んでできたらいいんだけど、少しでも役に立てれば』と、40年間で一軒家を購入できるくらいの金額を寄付していたようです。師匠との付き合いは27年、もう増えることはありません」 最愛の師匠の旅立ちから1年半──。『お笑い芸人やからな、いつも幸せそうな楽しい顔しとかないかんで』。笑瓶さんの教えを守り、笑助氏は亡き師匠との思い出を笑顔で語り続ける。 後編では、テレビ局で弟子入りを志願した時の笑瓶さんの反応、笑助氏の運転中に師匠が激怒した日などについて語っている。 (後編に続く)