大火砕流から33年 活動の原点は普賢岳 被災地支援30年続ける長崎・南島原の防災士
約30年間にわたり、地震や豪雨などで被災した全国各地に足を運び、ボランティア活動を続ける男性がいる。長崎県南島原市の防災士、旭芳郎さん(70)。これまで支援した現場は23カ所を数える。活動の原点には、故郷の姿を一変させた雲仙・普賢岳の噴火災害がある。1991年6月3日の大火砕流から33年。当時、全国から駆け付けてくれた人々への感謝の念が、今も背中を押し続ける。 【写真】「災害ボランティアの原点は島原」と語る旭芳郎さん 今月上旬、石川県七尾市に緑色の制服を着た旭さんの姿があった。能登半島地震の直後から毎月、被災地で支援活動に取り組んでいる。公費解体を予定する家では、家財の持ち出しは被災者の負担となる。高齢者の多い地域で冷蔵庫や仏壇、タンスなど重い荷物を運び出すことが多いという。 現地を訪れるたび、「復興の道はまだまだ遠いが、外部の人たちの関心は冷めつつある」と感じる。「長期的な支援が必要なのは、どの被災地も同じなのに…」。避難生活が続く能登半島と、終息まで5年を要した島原半島の境遇が重なる。 灰まじりの黒い雨が降り続いた91年6月3日の午後4時すぎ、鳴り響いたサイレンは今も耳に残る。大火砕流が地元を襲い、犠牲者の名前が次々と判明。同級生で消防団員の山下日出雄さん(当時37)の名前を見つけた。一緒にまちづくりに奔走した仲間だった。 「生かされた自分たちが、山下の分まで頑張らんば」。地元有志で「雲仙岳災害ボランティア協議会」を立ち上げた。火山灰が詰まり使えなくなっていた避難所のトイレ掃除をはじめ、被災家屋に流れ込んだ土砂のかき出し、支援物資の仕分けに奔走。「先が見通せない中、必死でやれることをやった」。復興まで活動が続けられたのは、全国から集まったボランティアのおかげだ。 リサイクルショップを経営する傍ら、当時の経験を基に北海道南西沖地震(93年)の被災地で、初めて地元以外でボランティア活動をした。2009年には防災士の資格を取得。東日本大震災(11年)、熊本地震(16年)などの被災地で知見を生かすことができた。 能登地震後の石川県では、ボランティア同士が交流サイト(SNS)などで情報共有を図り、被災者のニーズと自分たちの得意分野をいち早く結びつけていた。「ボランティア同士の連携がスムーズになった。過去の災害の経験が積み重なり、進化している」と実感する。 旭さんは現在、日本防災士会県支部の顧問として各地の講演に出向き、互助の大切さも伝え続けている。「自然災害はいつどこで起きるか分からない。手探りだった島原の経験は、能登の支援までつながっている。今後も生かし続けることが継承になる」と訴える。 (貞松保範)