狆を愛した5代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」が治世の汚点となったワケとは?
今、フジテレビでドラマ『大奥』が放映中だ。江戸時代を舞台にしたドラマに、よく出てくる犬と言えば狆(ちん)である。狆は近年あまり見かけない。だが江戸時代には、武家の女性たちや遊里で非常に愛された犬だった。今回は江戸時代に愛された狆という犬の歴史と、「生類憐みの令」について取り上げる。 ■生粋の愛玩犬・狆の歴史 狆がいつ頃、どこから入ってきたのかは諸説ある。もっとも有力なのは仏教伝来と共に入ってきたという説だ。『日本書紀』には、天武8年(679年)10月、新羅より使者が来て金銀、馬、駱駝(らくだ)など十余りの貢物をもたらし、その中に狗(いぬ)がいたとある。 その後も、朝鮮半島や中国大陸から何回か犬がもたらされている。派遣されていた日本人が連れて帰ることもあった。これらは戦国時代に入ってきた洋犬、いわゆる南蛮犬が大型であったのに対し、いずれも小型犬だったと思われる。 狆という呼称の由来も不明だ。諸説あるが、仁科邦男は『犬たちの明治維新 ポチの誕生』の中で、中国皇帝がみずからを「朕(ちん)」と名乗っていたところから、皇帝の犬としてそう呼ばれたのではないかと推測している。 狆のような鼻の低い短頭種の原産地は、チベット地方だと今ではわかっている。狆の源流であろう小型の短頭種は、高貴な犬としてチベットの寺院で大切に飼われていた。それが中国に渡り、そこでも宮廷で愛玩犬として飼われ、チベタン・スパニエルになったと言われている。FCI国際畜犬連盟が2015年、なぜか原産国を中国に変更した時には、多くの愛好家が驚いて抗議した。 チベタン・スパニエルは、中国で改良されてペキニーズになり、門外不出の宮廷犬として愛玩された。皇帝の葬儀では、柩を墓に導く役割を担っていたほどだ。西太后の葬儀では、『モータン』という名のペキニーズが葬列を先導した。 これらの小型短頭種が日本にもたらされ、武家などで愛玩犬として飼われたのである。そして、日本人の嗜好や着物映えなどを反映し、しだいに現在の形になったと考えられる。チベット原産の小型短頭種が、東アジアの長い交流史を小さな身体に刻みつけて、狆という犬になったのだ。 ■5代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」は悪法だったのか? 武家で大事に飼われていた狆は、5代将軍綱吉が愛玩したこともあって、江戸時代に座敷犬や抱き犬として大人気を博した。綱吉と言えば生類憐みの令である。その行き過ぎによる弊害があまりにも有名であるため、この法令には悪いイメージがある。 かつては教科書でも、悪法として取り上げられていた。しかし、1980年代以降の歴史研究で、儒教に基づく理想主義を追求した文治政治という評価に変わってきている。 生類憐れみの令は、動物に対してだけではなく、子ども・動物・障害者などの社会的弱者全般に慈悲をかける法令の総称だった。これは当時、世界的にも先進的な法令だったのである。「捨て子禁止令」が出たのも画期的だった。 イギリスでは、1835年に動物虐待が法的に禁止されるまで、牛いじめを始めとする虐待が娯楽として大人気だった。この牛いじめ用に改良されたのがブルドッグである。短い鼻と皺のよった頬は、牛の攻撃をかわすために改良されたものだ。 とはいえ、綱吉の理想主義が現場に混乱を招いたのは事実である。放し飼いで、ほぼ放置していた犬を慎重に飼わなくてはならなくなり、それが負担で捨てる人間も出た。 江戸を徘徊する野良犬を保護するため、幕府は近郊に大規模な犬の収容施設を造った。今で言う保護施設である。まず今は世田谷になっている喜多見に、次に四ツ谷と大久保に造った。いずれも敷地面積2、3万坪で、今のサッカー場より広い。それでも足りなかったため、さらに大規模な収容施設を中野に造った。敷地面積は16万坪で、サッカー場の10倍近い広さである。 その中には25坪ずつの犬小屋が290あり、7坪半ずつの日除け場所、459の仔犬育成場があった。そこに連日、真綿を敷いた籠に乗せられた犬が運び込まれたのである。そして犬1頭につき1日白米3合、10頭につき味噌500目、干し鰯1升が与えられた。 お囲い場と呼ばれた中野の収容施設は、その後も増設が続き、最終的には29万坪になって10万頭が収容された。東京ドーム20個分、東京ディズニーランドの2倍ほどである。現在、中野区区役所前に、それを伝える7頭の犬の像が置かれている。中野区役所はまもなく新庁舎に移転するが、犬の像はぜひ残してほしい。 しかし、それほど広大な収容施設を造っても、野良犬を収容しきれなかったのである。そのため江戸近郊の村に、年間1頭につき金2分を与えて飼育させた。例えば、今の埼玉県にあった武蔵入間郡北野村では、163戸の農家に651頭が飼育されていた。 幕府の財政的負担も大きかったし、住民にも様々な負担がかかった。綱吉の機嫌を損ねないよう、役人たちは杓子定規に施策を実行しようとする。そこに、理想と現実との乖離や現場の暴走が起きて、後世に悪評を残す結果となったのである。 ■幕末に海を渡った狆の人気ぶりとは さて、武家で愛玩された狆は幕末、来日した外国人たちによって海外へ渡った。イングランド王チャールズ二世が愛玩していた、チベタン・スパニエルに似ていたからである。外国人たちは「実に容貌が醜い」と思いつつも、高価な狆を購入して帰国し、欧米でジャパニーズ・チンのブームが起きた。 黒船に乗ってやってきた、かのペリー提督も3頭購入し、合計8頭以上を連れ帰っている。狆は体が弱い。外国へ渡った狆の多くは船上で命を落とした。だがペリーが持ち帰った犬のうち、数頭は無事に到着している。 ペリーはそのうち2頭を娘に送った。これには後日談がある。6年後の万延元年(1860年)、新たに結ばれた日米修好通商条約の批准書交換のため、日本の使節団がアメリカに向かう。そして批准書の交換を終えたあと、使節団の正使と副使ら数人がペリー宅を表敬訪問した。 ペリーはすでに亡く、未亡人と娘、そして2頭の狆が彼らを歓迎した。2頭は彼らの服の匂いを嗅ぎ、日本人だとわかると喜んで駆け回り、膝に乗って着物の袂(たもと)で遊んだ。そして、使節団が帰る時には別れを惜しみ、悲しんで大いに鳴いたのである。その様子はまるで人間のようで、使節団もペリー家の人々もみな涙を流したと言う。その2頭のうち1頭は、『イド(江戸)』という名前だった。
川西玲子