林望さんが古典から読み解く、現代と変わらぬ平安の情感。
近ごろ何かと話題を集めている、平安文化。京都をふらりと散策する際に、千年前に花開いた文化に想いを馳せてみるのもまた一興。
今でいう究極のイケメン、色好みの男とは?
突然のことで何の もてなしもできぬから、 せめて藁(わら)の座布団ばかりを 差し出したけれど、 この人は、片方の足は 下におろしたままの半身(はんみ)の 姿勢で、ずっと私たちの おしゃべりにいつまでも つきあっている。そして とうとう、どこかから 暁(あかつき)の鐘の音が聞こえてくる 時間になってしまった。 (『枕草子の楽しみかた』(祥伝社)より) 「平安時代は我々と全然違うと思い込んでいる人が多いけれど、一つ一つの人情の有り様は今の生活に置き換えてもそんなには変わらない気がします」 と、語る林望さん。 脚注なしに読み下した独自の「謹訳」で、古典文学の新たな世界を私たちに見せてくれる林さんならではの視点から、一見すると不思議に思えるけれどその底に隠れた納得の情感が窺える、平安エピソードを聞いてみた。たとえば、当時のイケメン=色好みとして、『枕草子』第百八十一段に登場するのは……。 「ある雪の夜、昔の御殿、ガラス戸なんかない板の間で火鉢を囲んでおしゃべりをしていた女房たちのところに、夜更けに男がふらりと訪れる。差し出された藁の座布団に腰を下ろし、片足は外に出したまま一晩中女房たちにおもしろい話をして、夜明けになると男は朗々と漢詩を吟じて帰っていく。僕が想像してもすごいね、と思います。これは色好みの男の一つの典型。決して図々しくない。そしてマメじゃないと本当に務まらないんです」 悪天候の中に女房たちの様子を見るかのように訪れ、話で楽しませ、さらりと帰っていく。これは女たちの人気を集めた、というのもうなずける。
帰っていく男はだらしないほうがいい!?
――暁に帰っていく人は、 装束(しょうぞく)など、どこまでも きちんと調(ととの)えなくたって よいのだし、烏帽子(えぼし)の紐を 髷(まげ)の元結(もとゆい)にがっちりと 結んだりもしないほうが いいのに……、と思われる。 たいそうだらしなくて、 ぶざまで、直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ) などをゆがんで着てたと したって、あたりは暗闇 なんだから、誰がそれを 見知って笑ったり謗(そし)ったり するものですか。 (『枕草子の楽しみかた』(祥伝社)より) この「暁に帰っていく人」というのは、女性の元に通ってきて明け方に恋人と別れて出ていく男のこと。一読して「帰り際はだらしないほうがいい」とは不思議な文言に思えるけれど。 「林あまりの歌にある『わたしが服を着ていないのにもう靴をはく〈夫〉で〈父親〉のひと』、あれと同じなんです。もう事が終わってしまったらさっと理性的になって帰るというのは、女性から見たら飽き足らない。いつまでもぐずぐずしていてほしいという。これは『枕草子』だけではなく『源氏物語』でも一貫して語られていること。事が終わってしまったらささっとスーツを着て、ネクタイ締めて帰ってしまうなんて。もう少し風情というか、余韻はないの?と思うのではないかと」 清少納言もまた、そんな体験をしていたのか、いや、だからこそ、の実感がここにこもっているのだという。