八百万の神のなかには「お菓子の神様」がいることを知っていますか
あらゆるものの「神」がいるとされる日本。それは、みんなが好む「お菓子」についても同様だ。お菓子を生業にする人、好む人が参拝必須の「お菓子の神」について、パティシエの吉田菊次郎が解説する。 【画像】お菓子の神様とされている田道間守 ※本記事は『万国お菓子物語 世界をめぐる101話』(講談社学術文庫)からの抜粋です。
「不老不死」の果実
古来よりわが国は諸事にわたり八百万の神々に守られているという。甘き世界またしかり、お菓子の神様がおわしますことご存知であろうか。 時は紀元直後、西欧においてはローマ帝国最盛期の頃のことである。現在の兵庫県にあたる但馬の地に、朝鮮半島の一国である新羅の王子・天日槍の子孫が住んでいた。彼はその地名を氏として田道間守と名のっていた。 田道間守は第十一代の垂仁天皇の命により、紀元六一年、幻の常世国にあるとされる、不老不死の仙薬果・非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求め、朝鮮半島に向けて旅に出た。 苦節十年の末ようやくにして使命を果たし帰国した時には天皇はすでになく、慟哭した彼は陵前にて食を絶ち、自らの命を捧げたという。 この時に持ち帰ったのが今でいう橘(たちばな)で、中国大陸南部のいずれかの地方のものであろうといわれている。 ちなみに「ときじく」とは「時に非ず」、つまり季節外れの意味である。橘は夏に実をつけ、そのまま秋や冬になっても成り続け、一度橙色(だいだいいろ)になるが春過ぎてからまた緑にもどってしまう。よってこの果実は橙と称される一方、回青橙(かいせいとう)の名でも呼ばれている。また二年目や三年目の実といっしょに成るところから、代々(だいだい)の語になぞらえて、正月の縁起もののお飾りとして用いられたりもする。
20世紀に生まれた「菓祖神」
さて、時も下って大正の初期。お菓子はかつて果子と書いていたこともあって、この橘こそがお菓子のルーツ、そして当時の忠君愛国の気風を反映したものでもあろう、これを持ち帰った田道間守また本邦初の忠臣とする考えがあいまって、彼は冒頭記したごとくお菓子の神様、すなわち菓祖神とされるにいたった。 ところで現在、田道間守は兵庫県豊岡市の中嶋神社と、和歌山県海南市下津町の橘本(きつもと)神社の二社において祀られている。 前者は田道間守の出身の地として、後者は持ち帰った橘の苗を初めて植えたところとして伝えられている。そして双方とも、和洋を問わず今にいたるもお菓子を生業とする人たちの参拝絶えることがない。(続く) 第2回では、日本でも人気のフランス生まれのお菓子の意外な歴史について見ていく。お菓子の栄枯盛衰は味覚の好みだけでなく、社会の動向によっても決まるのだ。
Kikujiro Yoshida