本郷和人 関ヶ原時点で59歳の家康が、豊臣家を滅ぼすのに「15年」もかけた理由とは…その背後に見え隠れする<圧倒的実力差>
松本潤さん演じる徳川家康がいかにして天下統一を成し遂げたのか、古沢良太さんの脚本で描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第44回「徳川幕府誕生」にて、関ヶ原の戦勝報告を行った家康だが、茶々(北川景子さん)から秀頼と孫娘・千姫の婚姻を約束させられて不満を隠せない。時は流れ、征夷大将軍となった家康は江戸に幕府を開くが――といった話が展開しました。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。今回は「関ヶ原の戦い、その後」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし! 側室で才女の「阿茶の局」。家康が別の側室に「茶阿の局」と似た名を付けていた理由とは… * * * * * * * ◆関ヶ原の戦い、その後 ドラマの前話で、家康は関ヶ原の戦勝報告を行いました。そこから大坂の陣へ、話は急ピッチに進んだわけですが、今回はその「関ヶ原の戦い以後」について。 辛くも西軍に勝利した家康だったが、関ヶ原後も一応は東軍に属した外様大名の心をつなぎ止めるのに四苦八苦した。 何とか朝廷から征夷大将軍に任じてもらい、ようやく幕府を開いたものの、諸大名はいまだに大坂城の豊臣秀頼に心を寄せていた。だから天下人は家康一人ではない。秀頼もまた天下人である。 公儀もまた、江戸と大坂によって担われていた。家康はこの状況を改変したいと懸命に努力を重ねた結果、ついに慶長20年(1615)年に大坂城を落とし、豊臣家を滅ぼす。 そこに至るまで、関ヶ原の戦いから実に15年もかかったのであった・・・ そう考える研究者(笠谷和比古先生など)がいらっしゃいます。しかし、あくまで私見を申せば、ぼくは以上の流れにまったく同意できません。
◆家康は辛勝だったのか まず関ヶ原の戦いですが、家康はこの戦いに僧侶と女性を伴ったといいます。僧侶は天海。女性はお梶(お勝とも)の方。 確かな資料は残っていないものの、天海が着用したという甲冑は残されており、また僧と女性が描かれた屏風もある。 ぼくは案外、この説は史実なのかもしれないと思っていて、そうであるならば、家康は戦う前から関ヶ原での勝利を確信していたからこそ、戦場の不文律(女性を帯同してはならない)を破ったのでしょう。 実際、関ヶ原で懸命に戦った西軍の部隊は石田三成隊、宇喜多秀家隊、小西行長隊、大谷吉継隊くらい。兵数は多くて5000、1万4000、6000、1500。あわせて2万6500。これでよく、何時間も戦ったものです。 多くの部隊は家康の文書攻勢により、動かなかったり、裏切ったり…。“家康が辛勝”という評価はいかがなものでしょうか。
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