【毎日書評】変わる鉄道マナー史「なぜ車内のケータイは迷惑なのか?」
なぜ車内のケータイは迷惑なのか?
車内の「迷惑行為」として、とりわけ2000年代以降にもっとも話題に上がった論点は「ケータイ」だと著者は指摘しています。いいかえれば、携帯電話やスマートフォンが存在しなかった時代とは価値観が大きく変化したのです。 事実、「駅と電車内の迷惑行為ランキング」では、2000年から2003年まで、「携帯電話の使用」が不動の1位だったのだとか。以後は若干の変化が見えたようですが、とはいえモバイルメディアの存在は現代の車内規範にとって“ノドに刺さった小骨”のように厄介な存在であり続けたわけです。 ケータイの「迷惑」の内容の変化は以下のようにまとめられるだろう。1990年代後半以降、電車内の携帯電話は健康被害の可能性が指摘され、厳格な利用指針が存在した。 ただし、そうした理由をタテマエとしながらも、新しいテクノロジーであった携帯電話そのもの、およびその主な担い手である若者への嫌悪感もにじむ。 しかし、2000年代後半以降、モバイルメディアの爆発的な普及のなかで、その「不快さ」がどこに由来するのかがより詳細に理解され、「迷惑行為」の内実が明示されるようになる。それは、モバイルメディアの「声と音」と「ながら操作」に対するものであった。(271ページより) だとすればモバイルメディアの「声と音」と「ながら操作」はなぜ迷惑なのでしょうか? 著者によれば、電車内に2つの問題が重なることで「迷惑」と感じられることになったようです。 ひとつは「資格的なコミュニケーションの秩序」として維持されている車内空間に、「聴覚的コミュニケーションの秩序」が侵入するという問題。2000年代に携帯電話が広く普及していったときに問題化された「通話」「音漏れ」「操作音」がそのいい例でしょう。そしてもうひとつは、対面的な現実空間に沿革的な情報空間が重なり合うことによる問題。 公共交通における「儀礼的無関心」は、たんなる無視ではなく、他人同士として適切な距離を維持するための「儀礼」として無関心を装うことであった。しかし、モバイルメディアの向こうにいる人を優先して通話をすれば、車内にいる人間はおきざりにされる。その結果、情報空間の顕名的・個人的関係を重視した、交通空間の匿名的・公共的関係に対する「儀礼なき無視」として認知される。(273ページより) しかも電車内での携帯電話での通話の場合、視野の範疇にある“こちらの利用者”の声は聞こえるものの、電話の向こう側にどんな人がいるのかを判断することはできません。そのため、ただでさえ通話の声は迷惑なのに、そんな“片方の会話”は雑音でしかなくなってしまうわけです。(267ページより)