川藤幸三OB会長が打ち出した『トンデモ構想』阪神―巨人のOB戦で甲子園球場を満杯にしたる…しかし、思わぬところからストップが
◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 14年間、阪神タイガースのOB会長を務めた川藤幸三氏(75)の、あっと驚く『会長!カワさん奮闘記』(中)である。2010年11月、田淵幸一前会長のむちゃくちゃ?なゴリ押しで「会長」に就任させられた川藤氏は、11年、誰もが思いつかない《目標》を打ち出した。それが、阪神―巨人のOB戦で甲子園球場を満杯にする―というとんでもない構想だった。 「そんなもん、やってみな分かれへんやないか。やる前から無理や言うとったらなーんもできんわ」。いやいや、そうは言うても…。 それでは物語の続きを始めよう。その前に素朴な疑問から。 ―なんでそんな大それたことを思いついたんですか? 「寂しいやろが、阪神―巨人の伝統の一戦でも甲子園球場が満員にならへん―ちゅうのは。そんなアホなことがあるか? 時代のせいにしたらアカン。もう一回、ワシらが真剣に考えなあかんことやろ」 ―そんで、どう考えたんです? 「もう一度、ファンにプロ野球の魅力、楽しさを伝えなあかんと思たんや。自分らのためやない。ファンに喜んでもらえるプロ野球にするためにはどうしたらええか―と、それだけ考えた」 カワさんは考えるだけではなかった。すぐに動いた。まず一番に当時、野球評論家として所属していた読売テレビの望月規夫社長(当時74歳)に思いをぶつけた。長年の付き合い。カワさんの性格を熟知している望月社長はニッコリ笑ってこう答えた。 「カワさんの言う通りやと思います。阪神と巨人が元気にならないとプロ野球界は盛り上がらない。OB戦で甲子園を満杯…やったりましょう!読売テレビは全面協力しますよ」 すぐさまスポーツ局長らが呼ばれ《実行委員会》のようなものが出来上がった。そこは番組作りのプロ集団。いろんなアイデアが飛び出した。 「昔懐かしい対決は絶対です」「江夏対王の勝負。掛布―江川の対戦は定番やね」「藪―清原の対決も見たい」「見るだけやなくもっとファンに喜んでもらいたいな」「ユニホームは昔のデザイン。タイガースの帽子は大阪タイガースの『O』にしましょう」「そしてユニホームにサインしてオークションにかける。その収益金を東日本大震災(11年3月11日)の復興支援に充てる」―とどんどん骨格が出来上がっていった。 カワさんは九州・博多へと飛んだ。ソフトバンク・ホークスの王貞治会長に会うためだ。王氏はソフトバンクの球団会長をしていてもれっきとした「巨人軍OB会」の会長。カワさんはそこでも熱い思いを語った。さすがの王さんも驚いた。 「甲子園球場を満杯に? カワ、本気か? OB会なんて動かん人間ばっかりやぞ?」 「ワシが動きます。絶対にやり遂げてみせますから協力してください」 同じOB会長の肩書とはいえ《世界の王》と《虎の春団治》では格が違う。カワさんはテーブルに額を擦りつけるようにしてお願いした。 「カワ、お前がそこまで言うんなら協力は惜しまないよ」 「あ、ありがとうございます!」。カワさんはまた額を擦りつけた。 ―絶対にやり遂げるって、ようそんなこと王さんにいえましたね 「自信なんてあるかい。はったりや!」ほんまかいな。 思わぬところからストップがかかった。なんと《身内》であるはずの阪神球団と甲子園球場が「全面協力」を拒んだのだ。 「カワさん、なんぼなんでもOB戦で甲子園球場を満杯にできまっかいな。はっきりいうて無理。無理ですよ」 「わたしら集客のプロが試算して9000人が精いっぱい。そんなイベントにスコアボードのオーロラビジョンやロッカールームを使わせ―やなんて無茶ですわ。お金かかるんですよ?」 「わかっとるわい。そんなもん稼いだる―ちゅうねん」 「いや、無理です」 「もう頼まんわい!」 それが身内の仕打ちか…とカワさんは怒りを爆発させかけた。 「そんなオレを末さんがいさめてくれたんや」 ここで解説を加えよう。「末さん」とは末永正昭氏(当時74歳)のこと。1970年、熊谷組からドラフト2位で入団。当初は「社会人野球屈指の三塁手」といわれたが、打撃面で伸び悩み6年で現役引退。その後は「1軍の名マネジャー」として選手の面倒を見た。 筆者もお世話になった。83年、《夏の長期ロード》でのこと。スタートの大洋戦(横浜)、中華街でスリに会い遠征旅費をすべてすられてしまった。「どうしよう」とベンチでふさぎ込んでいると、「ほれ、当座のお金や」と数万円の入った封筒を手渡してくれたのだ。余談が過ぎた。 その末さんがこういった。 「カワよ、今、怒りを爆発させたら、お前のやろうとしていることは何もでけへんぞ。彼らは怖いんや。サラリーマンやから失敗したら責任を取らせられる。気持ちを分かったれ。ワシらは結果で勝負してきたんや。結果を出したったらええんや」 《結果》を出す―とは、チケット(入場券)を売ることである。カワさんはこれまでにお世話になったある企業のトップを訪ねた。それが「大和ハウス工業」の樋口武男会長兼CEO(当時82歳)である。樋口氏はカワさんにこう告げた。 「君の気持ちはよう分かった。そのプランを書類にして持って来なさい。そうしたら、わたしがいろんな企業を紹介してあげましょう」 「ありがとうございます」。カワさんはまた頭を擦りつけた。すると樋口氏はピッシッと釘を刺した。 「けど、その交渉にはお前さん自身が行かなあかんよ。今まで、わたしはいろんな人に紹介したが、どいつもこいつも、交渉を人に任せて自分でやろうとしない。私の名前さえ使えれば―と思っているヤツが多い。川藤くん、君にはそうなって欲しくないんや」 「分かりました。話はすべてワシ自身が回って頭を下げてきます。ありがとうございました」 人と人との信頼関係、《縁》のありがたさにカワさんの心は震えた。 「ほんまにたくさんの人に協力してもろた。企業だけでチケットが2万枚売れたんや」 ―《結果》を出したんですね。球団は? 「私らの考えが及びませんでしたーと頭を下げよった」 ―末さんのおかげですね 「おお、そうや」 球団と甲子園球場は当日のグラウンドはもちろん、スコアボード、オーロラビジョン、鶯嬢の場内アナウンス、球場内の売店、スタンドの売り子、選手用のロッカールームすべての使用を許可したのである。 ポースターも作り、いろんな番組で宣伝したおかげで、一般発売されるとわずか1カ月足らずの間に3万枚に達したのだ。カワさんが一番驚いたのは、ネット裏1万円の席から売り切れになったこと。 「ホンマは入場料、一律1000円にしたかったんや。けど、そんな値段にしたら人が押しかけて収拾が取れんようになる―と反対されてのう。1万円の席なんて絶対に売れ残ると思とったわ」 すべての準備が整った。あとは2012年11月18日の当日を迎えるだけとなった。ところが、前日の17日はなんと、朝からどしゃぶりの雨。カワさんは巨人OBたちの宿舎、芦屋の「竹園旅館」を訪ねた。王さんを筆頭に巨人のそうそうたるメンバーが口をそろえた。 「カワよ、あした大丈夫か?」 「はい、大丈夫です!」とカワさんはまた胸を張った。 ―前もって天気予報を聞いていたんですか? 「アホ、天気のことなんかワシに分かるかい。はったりや。はったり」 そればっかりや。はたして、無事、OB戦は行われるのでしょうか…。次回を乞うご期待! ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
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