ヤクルトに「アホか、誰が行くか!」 新聞で知ったトレード…頭に来た球団取締役の一言
伊勢孝夫氏は1976年オフに近鉄からヤクルトへ移籍…西本体制で主軸が“解体”
近鉄球団に大激怒した。伊勢孝夫氏(野球評論家)はプロ14年目の1976年オフ、益川満育内野手との交換トレードで近鉄からヤクルトに移籍した。「出されるとは思ってもいなかった」と振り返るようにまさかの出来事だった。しかも一部マスコミの報道で、その事実を知ったことに憤慨しきり。球団からトレードを通告された際は「こっちに言うのが先やろ。アホか、誰が行くか!」と大もめしたという。 【動画】イスを蹴とばし広報もあたふた…ヤクルトの契約更改でブチギレ 1974年シーズンから、近鉄監督には西本幸雄氏が就任した。阪急を5度もリーグ優勝に導いた名将だ。2年目の1975年には近鉄球団初の後期優勝を果たすなど、早速手腕を発揮した。伊勢氏は阪急に1勝3敗で敗れたその年のプレーオフに全試合「3番・一塁」で出場。唯一、勝利した第1戦(10月15日、西宮)では阪急・山田久志投手から満塁本塁打を放って貢献したが、西本体制がスタートしてから徐々に出番は減っていた。そんな中での1976年オフのトレードだった。 西本監督は積極的にチームを変えていった。1974年オフには主砲の土井正博外野手を太平洋、1975年オフには永淵洋三外野手を日本ハムに放出した。かつての近鉄のクリーンアップ「3番永淵、4番土井、5番伊勢」のうち、2人がその時点で近鉄を去った。残ったのは勝負強い打撃から”大明神”のニックネームがついた伊勢氏だけ。それでも「私を出すことはないだろうと思っていた」という。 「阪神の村山実さん(1970年から1972年まで阪神監督=第1期)が私をかわいがってくれて『阪神に来い、阪神に来い』って言われていて、正式にトレードの申し込みもあったみたいなんですけど『伊勢は出さん』ってなったと聞いていたんでね。伊勢神宮が近鉄沿線じゃないですか。そういうのもあって、私はないのではって思っていたんですけどね、何のことはない。出されましたね」と伊勢氏は苦笑しながら話した。3年間で元クリーンアップトリオがきれいに“解体”されたわけだ。 当時のヤクルトは広岡達朗監督体制で、2軍監督は小森光生氏。伊勢氏が近鉄でのプロ5年目に野手転向した際の師匠だ。「私のトレードには小森さんが絡んでいたんですよ。広岡さんに『伊勢をもらったらどうですか』って言ったそうです。広岡さんは『近鉄は伊勢を出さないだろう』と言っていたみたいですけど、西本さんは近鉄を変えようとしていたから、その話に“うん”と言ったんでしょうね」。若手の益川との1対1でも西本監督は伊勢放出の断を下したのだ。