島津斉彬の対外認識と政略、アヘン戦争による日本への衝撃と琉球問題をどう乗り越えたのか?
(町田 明広:歴史学者) ■ アヘン戦争の衝撃と撫恤政策への転換 天保11年(1840)、清(中国)とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発した。天保13年(1842)年8月、イギリス軍に大敗した清は南京条約を締結させられた。これによって、清は広州や上海など5港の開港、香港の割譲、1200万両の賠償などを強いられ、中国分割の起点とされる事態に追い込まれたのだ。 【写真】阿部正弘 東アジア最大の国家であり、盟主とも言える清の惨敗は、日本人の為政者・知識層を過剰なまでに刺激した。その結果、植民地化の危機を深甚に意識することに直結した。一方で、 幕府はその事実の隠蔽を企図し、国内での動揺を抑えようと努めたが、思うようにいかなかった。島津斉彬は、琉球を通じて独自にその詳細を熟知した。 ところで、アヘン戦争の3年前、天保8年(1837)にモリソン号事件が勃発していた。浦賀に来航した米国商船モリソン号に対し、浦賀奉行所が外国船打払令に従って砲撃を加えた。その後、薩摩藩の山川港に来航し、ここでも薩摩藩主島津斉興の命令で威嚇砲撃を加え、退去させたのだ。 しかし、モリソン号来航の目的が日本人漂流漁民の送還であったにもかかわらず、砲撃したことへの批判が巻き起こった。さらに、アヘン戦争での清の惨敗や、イギリス艦隊の来航の情報に驚愕した幕府は、天保13年に遭難した船に限り、食料・薪水提供を認める天保薪水給与令を発令した。 漂流して食物や薪水が乏しい場合には、相応に与えて帰国させる撫恤政策に舵を切ったことになる。そもそも、撫恤とは「あわれみいつくしむ」ことであり、本来の鎖国政策からは、だいぶ後退することになったのだ。
■ 琉球問題の発生 この時期、薩摩藩が実効支配する琉球も世界情勢の影響を受けざるを得なかった。天保14年(1843)、イギリス艦サマラン号が琉球の拒絶にもかかわらず、八重山諸島に上陸して測量を実行した。また、同15年(1844)、フランス艦アルクメーヌ号が那覇に来航し、通商・布教を要求した。琉球は拒否したものの、フランスは神父フォルカードと通訳を強引に残留させた。 弘化3年(1846)、那覇に来航したイギリス船はイギリ皇帝の命令として、宣教師のベッテルハイムとその家族を無理やり居住させた。これ以降、毎年のようにイギリス・フランス船が琉球へ来航し、通商を要求し続けた。 この事件を重く受け止めた薩摩藩・斉興は、これを契機に長崎のオランダ商館へ積極的に情報を提供したり、また情報を入手したりという、独自の対外政略を展開したのだ。 ■ 斉興の琉球問題への対応 天保15年、薩摩藩はアルクメーヌ号事件について、幕府に事件の詳細を報告した。調所広郷を責任者とし、幕府の指示に従い琉球に警衛兵を派遣した。翌16年には、幕府に無断で警衛兵の数を減らし、その事実を秘匿した。 弘化3年、イギリス・フランス船が来航したため、今回も斉興は幕府にそのことを報告し、その指示に従って警衛兵を琉球へ派遣した。しかし、調所は斉興の了解の下、またもや警衛兵の数を水増して報告した。その際、斉興は警衛には限界があるとして、フランスの要求通り、通商開始を一部認めることを幕府に建言したのだ。 その建言に接した老中阿部正弘は、当時アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルへの対応で忙殺されていた。そのため、琉球についての対応は薩摩藩に委ね、一部通商を黙認する決定すらしていた。その後、警衛兵の水増し工作が表面化したため、加えて、キリスト教の布教に否定的な琉球側の強い反対も相まって、フランスとの通商は結局のところ実現しなかった。 斉興は警衛兵の水増しを容認するなど、琉球問題には消極的であり、この後に登場する斉彬に比べると、対外認識はやや甘かったように見える。しかし、当時の斉興の主たる政治課題は、財政の再建であった。調所の改革が成功を収めつつあるこの段階で、先が読みにくい外交課題に必要以上の財政的手当を施すことは、事実上不可能であったのだ。むしろ、斉興は穏便な方法を選択したとも言えよう。