闘将からの“激辛メッセージ”…『99』で自ら殻を破った井上一樹 監督就任後に背番号変更した8選手への願い
◇渋谷真コラム・龍の背に乗って 井上一樹物語「4」星野仙一編 中日・井上一樹監督(53)に、チーム再建の任が託された。決してエリート街道を歩んできたわけではない竜将の人生には、いくつかの転機があった。出会いを逃さず、運命を切り開いてきた男。その源流を4回連載で振り返る。 野手転向を発案した島谷が考えた通り、井上が花を咲かせるまでは年月を要した。転向1年目に1軍で13安打と芽を出したまでは良かったが、翌1995年は出場11試合、3安打。そのオフにチームは大きく動いた。星野仙一が5年ぶりに監督に復帰したのだ。球団が業務を終了した12月28日に新人、移籍選手に加え、10選手もの背番号変更が発表された。 球団が「こんなにたくさんの変更は恐らく初めて」というほどの大シャッフル。38からのちに代名詞となる99に変わった井上だが、当時の紙面には一覧表に載っているだけ。数字には意味がある。期待されている者は軽くなり、奮起を促したい者は重くなる。今でこそ珍しくない99だが、この年は12球団で最重の番号。激辛のメッセージの送り主は、もちろん星野である。 「最後という意味合い。それなら体の大きな自分にはぞろ目がいいじゃないか。つけさせよう。ちょうどいい番号じゃないかと星野さんが考えたということですね」 投手で4年、打者で2年。井上は背水の陣だと理解した。しかし翌96年はあろうことか1軍出場ゼロ。打撃コーチだった水谷実雄の進言もあったようだが、それでも星野は待った。97年は黒田博樹からの初本塁打を含む21安打。98年は107試合、93安打とレギュラーに手が届くところまで成長した。そして99年。誰かに背中を押され続けてきた井上は、ついに自ら殻を破った。手袋やリストバンドをピンクに一新。周囲は驚くより先に、厳格な星野の怒りを買わないかと心配した。 「そんな色にして大丈夫か?って言われましたけど、チャレンジですよね。微力でも何かをアピールしなきゃと思った」 その年はキャリア最高の133安打。「恐怖の7番」としてリーグ優勝に貢献した。ピンクは黙認したが「どうやったらあんなに怒れるんだろう」と思っていた星野から、井上が学んだことがある。 「ギャップは必要かな。雷も落とさないといけない。だけど次の日には『取り返してこい』と言って使う。そこはマネしたいと思ってます」 監督就任後、井上も8選手の背番号を変更した。期待した者、奮起を促す者…。かつての自分のように、殻を破る日を信じて待つ。=おわり、敬称略
中日スポーツ