フェザー級の長い歴史に刻まれるチャンピオンの系譜
3月2日、アメリカ・ニューヨーク州ベローナで世界初挑戦のリングに立った阿部麗也(KG大和)は王者ルイス・アルベルト・ロペス(メキシコ)に8ラウンドTKO負け。ロペスが保持するIBF(国際ボクシング連盟)フェザー級タイトルを奪うことに失敗した。 阿部は夢を叶えられなかったが、今回の挑戦であらためてクローズアップされたのが、世界フェザー級の壁の厚さだった。阿部は勝てば長谷川穂積以来となる13年ぶりの「日本人フェザー級チャンピオン」の称号を手にしたはずだった。
フェザー級(体重126ポンド=57・15キロ=以下)の歴史は古い。国際的に世界王者と認められたジョージ・ディクソンを第一号としても、現在まで130年以上もの長きにわたって王座が争奪されてきた。 日本人ボクサーでこの階級を制したのは5人(帝拳ジムに所属したベネズエラ人のホルヘ・リナレスを除く)。一つ下のスーパーバンタム級まではどの階級も二けたの世界チャンピオンが出ているから、日本の選手にとってはここを境に難易度が上がっている。フェザー級より重い階級ではスーパーフェザー級こそ10人の日本人世界王者を輩出しているものの、これを除いていずれも5人以下なのである。
日本人フェザー級苦労の歴史
日本で初めてフェザー級の世界タイトルマッチが行われたのは1959(昭和34)年、高山一夫がアメリカの王者デビー・ムーアに挑んだ一戦だが、この試合をめぐっては有名なエピソードがある。それまでフライ、バンタム級での挑戦経験しかない日本では、フェザー級は最も重い階級。そこでマスコミが挑む高山を小型車にたとえ「まるでルノーがダンプカーにぶつかるようなもの」と報じた。これはプロモーターを大いに激怒させたが、当時、この未知の階級へのチャレンジはそういう見方をされたのだ。 高山は世界に2度挑んだが、高山より先、初めて現役の世界フェザー級チャンピオンと対戦したのが金子繁治。1955年7月、後楽園球場でサンディ・サドラーと戦った。東洋無敵と恐れられた金子も生涯104度のKO勝利を記録するサドラーには7ラウンドTKO負けだった。 昭和の名選手、関光徳も世界フェザー級の壁に跳ね返された。5度の世界挑戦を経験した関はそのうち4度がフェザー級戦だった。メキシコの英雄王者ビセンテ・サルディバルを窮地に追い込み、ベルトに手が届きかけた試合もあるが、惜しくも宿願を果たすことはできなかった。 またファイティング原田の「幻の3階級制覇」も、このフェザー級での話だ。フライ、バンタムを制した原田は1969年7月にシドニーに渡ってフェザー級王座を狙ったが、王者ジョニー・ファメションから4度のダウンを奪いながら判定に泣いた。オーストラリアのファンにも地元判定として記憶される一戦である。