「光源氏」のモデルの一人とされる藤原伊周
同年3月に道隆が病床にある時に限って、内覧に任じられた。この人事に満足せず、伊周は父に替わって関白の座を得られるよう工作を謀っている。 数々の傲慢な振る舞いに、一条天皇のみならず、公卿たちからも少なからず不興を買っていたようだ。 同年10月に道隆が病没すると、関白の座をめぐり、道隆の弟である藤原道兼と道長、伊周の3者のにらみ合いが続いたが、就任したのは道兼だった。 しかし道兼は就任後、数日で死去。残された道長と伊周との間で、激しい争いが繰り広げられた。深まる対立は、2人による激しい口論をはじめ、伊周の弟である藤原隆家(たかいえ)と道長、それぞれの従者による衝突や殺傷事件にまで発展。宮中は異様な緊迫感に包まれた。 そんななか、996(長徳2)年1月16日に、伊周の従者が花山(かざん)法皇に矢を射掛ける事件が勃発する。当時、伊周は藤原為光(ためみつ)の三女に入れ込んでいたが、この女性のもとに花山法皇も忍び込んでいると誤解して襲ったものだという。実際に花山法皇が足繁く通っていたのは、為光の四女の方であった。 この騒動はすぐさま露見。法皇に矢を射掛けるという不敬事件は政治問題へ移行した。法皇の狙撃、詮子に対して呪詛をかけた疑惑、私的に大元帥法(たいげんすいほう/勅命がなければ行なってはならない呪術)を修したことという3つの罪状により、大宰権帥への左遷と配流が決定した。これらの事件は長徳の変と呼ばれている。 ところが、伊周は重病と称して一条天皇の皇子を懐妊中の妹である定子(ていし/さだこ)の住まいだった二条邸に隠れ、なかなか護送に応じようとしなかったという。 出家姿で護送中も病気を理由に何かと動こうとしなかったため、やむなく同年5月、播磨国(現在の兵庫県西南部)での逗留(とうりゅう)が許された。しかし、同年10月に母・貴子と妹・定子の見舞いと称して密かに入京していたのが発覚し、強制的に太宰府に護送される結果となっている。 翌997(長徳3)年に赦され、同年中に正式に京に戻った。すでに政治的影響力は失われていたが、1003(長保5)年に従二位、1008(寛弘5)年に准大臣、翌1009(寛弘6)年に正二位となり、いずれは権力を取り戻すかに思われた。 ところが、再び呪詛疑惑が持ち上がったのは、この頃のこと。政敵・道長の娘である彰子(しょうし/あきこ)が一条天皇の皇子を出産したことが動機とされたらしい。それまで、妹・定子の生んだ皇子が次の天皇となることが伊周の政界復帰の唯一の手綱だったために、伊周は彰子と皇子(あるいは道長と彰子)への呪詛が疑われたのだった。 後に赦されたものの、この時伊周の政治生命は完全に絶たれた。1010(寛弘7)年、失意のうちに亡くなっている。享年37。 政治的手腕という点においては、老獪な道長に遠くおよばなかったものの、清少納言の『枕草子』では「(伊周は)外見が良く、身だしなみも良い」と評価されており、楽器をはじめとした学芸にも秀でていたことから『源氏物語』の光源氏のモデルの一人とされている。
小野 雅彦