武道館を埋め尽くす中国人たち――華流ポップスターはなぜ「東京」を目指すのか
台湾人歌手が中華圏の音楽シーンを席巻した90年代
ここで、台湾出身のアーティストたちが、中国大陸マーケットで支持されている背景を紹介してみよう。 1980年代、民主化が進む台湾では、政治的にも文化的にも自由な気風が生まれた。それまでは演歌調や日本歌謡曲の焼き直しが多かった音楽界だったが、この頃から、作詞作曲から演奏まで自分でこなすマルチな才能を持つシンガーが多く育てられていった。李宗盛はそんな中で音楽シーンに登場し、アーティストとしてのキャリアを積んでいった。 1990年代はCDの売上が好調だったため、アーティストたちの活躍の場は台湾が中心だった。上で名前を挙げた張惠妹、周華健なども、この時代に人気を高めた歌手たちだ。当時はシンガポールやマレーシア出身の華人系シンガーも、まずは台湾でデビューして、そこから中華圏全体にファンの輪を広げる、というルートを取ることが多く、台湾は若手華人アーティストの“揺り籠”でもあった。 しかし、2000年代に入ると、急速に豊かになっていく中国大陸のほうが、台湾人アーティストにとっても大きく収入が見込めるマーケットになっていった。 李宗盛は台湾では「外省人」と呼ばれる、国共内戦後に台湾に来た大陸系移民の家系に当たる。当時すでにベテランの域に達していた彼にとっては、そうした出自も相まって中国で公演する機会も増えていき、やがて中国大陸が台湾に代わる居住の場になった。 中国と台湾はビジネス交流を含めて密接度を高めていったが、音楽業界での往来も劇的に増加していて、一時は、台湾でヒットしたアーティストが旬を過ぎてくると中国へ活動の場を移すという、(少し乱暴な言い方かもしれないが)「出稼ぎ」現象が続いていた。大陸のマーケット規模は人口が2000万人規模の台湾よりも約70倍にもなるので、広い広いブルーオーシャンだった。 中国大陸にしても、当時は自由な気風の中でアーティストを産む素地が整っておらず、海賊版の音源から流れるのは台湾人歌手の歌ばかり、という時代が続いたこともあり、中国のテレビやステージに登場する台湾人アーティストたちは重宝されたわけである。 一方で、アーティストたちが台湾と中国のイデオロギー争いに巻き込まれる事態も、往々にして起こった。例えば張惠妹は、民進党政権が生まれた2000年、陳水扁総統の就任式で中華民国国歌を披露したばかりに、中国当局から不興を買い、しばらく中国での活動を禁止されたこともある。中国でビジネスをする限り、当局の逆鱗に触れる言動や行動は控える、という不文律の下、台湾人アーティストたちは大陸で活動を続けていくことになる。 そして今、90年代にヒット曲を出した多くの台湾人シンガーたちが、台湾のテレビに登場することはますます少なくなっている。これは、多くのベテランシンガーが現在も中国に住み、中国のテレビやステージに出演するという状況が続いていることを意味している。