「怒羅権」の知られざる現実が明らかに…!中国残留孤児2世「日本では年金月2万円以下」極貧の生活
太平洋戦争の終結を機に、中国に取り残された日本の子どもたち「中国残留孤児」。 1980年代以降、日本に帰国した彼らを待ち受けていたのは、新たな困難だった。【前編:「散々殴られ、つるし上げ」中国残留孤児の想像を絶する悲劇】につづいて、『無縁老人』(石井光太、潮出版社)から引用する形で紹介したい。 【前編】「怒羅権」誕生秘話…親世代が中国で味わった想像を絶する悲劇 主に1980年代~1990年代にかけて、日本政府は残留邦人を帰国させる帰国受入援護事業を開始する。これによって、日本に永住帰国を果たした残留邦人は、約6700人(家族を含めれば2万人以上)に上った。 ただし、全員がすぐに帰国したわけではなかった。残留孤児たちは幼い頃に中国人夫婦に引き取られ、その家の子どもとして育てられてきた。血のつながりはなくても、育ての親である彼らに対する感謝の想いは大きい。帰国事業がはじまったからといって、さっさと日本に帰るわけにはいかない。 本書に登場する残留孤児の女性もそんな悩みを持っていた1人だ。彼女は言う。 「私は終戦時に2歳半だったので日本の家族のことを覚えていなかったですし、育て親を実親同様に思っていたので、何が何でも帰りたいという気持ちはありませんでした。それに中国人の男性と結婚し、そちらの親のこともありました。 日本への帰国を最終的に決断したのは、夫の母が病気で亡くなった後です。それまでは、中国に義母を残して、私が夫と子どもを連れて日本へ行くことに引け目を感じていたのですが、それがなくなったことで海を渡れる決心がついたのです」 ◆日本語も日本文化も忘れていた 逆に言えば、帰国事業がはじまった後も、中国の家族との折り合いがつかず、中国に残ることを決めた人たちもいたということだ。 だが、祖国へ帰った残留孤児たちの日本での暮らしは困難を極めた。40年前後も中国に溶け込んで暮らしていた残留孤児たちは、日本に知り合いがいないばかりか、日本語も日本文化も忘れていたためだ。 日本政府がそんな残留孤児のために設置したのが、「中国帰国孤児定着促進センター(後に改名)」だった。ここで1年ほどかけて残留孤児に日本語指導や定着支援を行うことにしたのである。 だが、現実はそう甘くはない。残留孤児たちは30~50代の年齢になっていて新たに言語を学習するのは簡単ではなかった。また、結婚して子どももいたため、生活に余裕がなく、できるだけ早く働かなければならなかった。それで日本語をほとんど身につけないまま、給料が安く不安定な仕事に就いたのだ。 残留孤児の男性は次のように話す。 「僕は1987年に日本で伯母を見つけて福岡に来ましたが、当時は語学研修の環境が整っていませんでした。なので、働きながら独学で日本語を学ばなければならなかったのです。 仕事は工場の作業員、清掃業など何でもやりました。つらかったのは、どこへ行っても『おい、中国人』と言われて外国人扱いされ、差別やいじめに遭ったことです。あの頃の中国人は今よりずっと貧しく、弱い立場だったので、日本人の中には馬鹿にしたり、いじわるをしたりする人がいたのです。そのせいで、何の仕事に就いても日本人とトラブルになって長続きしませんでした」 中国では「日本人」と呼ばれて差別されていたにもかかわらず、日本に帰ったら今度は「中国人」と言われいじめられたのだ。言葉もうまく話せず、仲間もいない彼らは、歯を食いしばって耐えるしかなかった。 【前編】の冒頭で記した、犯罪グループ「怒羅権」のメンバーである残留孤児2世たちは、こうした1世の子どもたちだ。小学生で来日した子であれば、日本語もわからないまま日本の学校に編入したのである。 このような子たちは、日本の学校で「中国人」と言われていじめられた。日本語がわからないので、先生に助けを求めることすらできない。 しかも、先の例からもわかるように、親たちは低賃金の非正規労働を2つも3つも掛け持ちしてなんとか生計を成り立たせていた。そのため、家庭は貧しく、子どもたちはネグレクト(育児放棄)同然の環境に置かれていた。そして、怒羅権のメンバーが証言するように、親のストレスはしばしば虐待という形で2世の子どもに向けられていたのである。 このような2世が、学校で真面目に授業を受けるのが嫌になり、同じ境遇の仲間と徒党を組んで道を外れるのは必然だった。無論、全員が全員そうだったわけではないが、彼らの一部が不良化し、非行に手を染めるようになった背景は納得できなくはないだろう。 ◆2世は「支援給付」の対象外 とはいえ、2世といっても様々だ。「怒羅権」のメンバーたちは小学生くらいで来日したことで、学校で差別を受けた。 だが、ある程度大きくなってから来日した2世たちには、年齢的にグレるという選択肢がなかった。そのため、彼らの多くは1世と同じように日本語もほとんどわからないまま低賃金の非正規労働に就いて苦労をする者が大半だった。 現在、日本政府は残留孤児のために「中国残留邦人等支援給付制度」を設け、金銭面等で生活を支えている。これによって貯蓄がなくても、ある程度の生活ができるようになっているのだ。 しかし、この制度は1世にのみ適応され、2世は対象外である。そのため、1世と2世の間で、扱われ方に大きな違いが生じているのが実情だ。 本書に登場する2世の男性は次のように話す。 「私は残留孤児ではなく、残留婦人(戦火の混乱の中で中国に残り、中国の家庭に嫁いで生き延びた女性)の子どもです。これも2世の扱いになります。49歳で来日しましたので、日本語はほとんど覚えられませんでした。 掃除、工場、鉄工所、いろんな仕事をしたけど、いじめもひどかったし、お給料をもらえないこともあった。1世の人たちとほとんど同じ境遇なんです。でも、2世には制度が適応されないので、私は今も月1万9000円の年金しかもらえない。これでは死ぬまで働かなければならないのです」(通訳を介しての会話) 国がどこまで補償をするのかは難しい問題だ。ただ、幼くして中国に残った残留孤児の子どもも、成人して中国人に嫁いだ残留婦人の子どもも、一括りに「2世」としたがゆえに起きた問題だといえるだろう。 解決策を見いだすのは容易ではないが、日本では今なおこうした残留孤児の問題がつづいていることは知っておかなければならないだろう。 取材・文:石井光太 ’77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。
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