ノーベル平和賞の重責抱え、心不全を患いながら授賞式へ 日本被団協代表「長崎を最後の被爆地に」【広島発】
ノーベル平和賞の授賞式を12月に控え、広島県内7つの被爆者団体が日本政府に核兵器禁止条約の批准を求める署名活動を行った。その中に、入院中の病院から外出許可を得て署名活動に参加した被爆者がいる。彼を突き動かす思いとは何か。 【画像】病をおして核兵器廃絶を訴える被爆者・箕牧智之さん(82)
ノーベル平和賞の横断爆を掲げて
広島市安佐北区の安佐医師会病院。 入院中にもかかわらず、スーツを着て外出する82歳の男性がいる。広島県被団協の理事長で、日本被団協の代表委員を務める、箕牧智之さんだ。 「今日は平和公園で署名活動することになっている。核兵器禁止条約に日本政府もオブザーバー参加してほしいと。ノーベル平和賞の横断幕を掲げたら、道行く人も少しは信頼してくれるかな」 さかのぼること1カ月半。10月11日、ノーベル賞委員会は2024年の平和賞を「日本被団協に授与する」と発表。その瞬間、箕牧さんはカメラの前で涙を流した。 「感激のあまり涙をこぼしたり、いろいろ私の心の中は錯綜しております」 世界から「日本被団協」が注目される今を大きなチャンスと捉え、箕牧さんはこれまで以上に強い使命感を抱くようになった。
核兵器なくすため「もうひと踏ん張り」
受賞後、初めて被爆証言に向かった先は山口県山陽小野田市の竜王中学校。「毎年、呼んでもらっとる」と箕牧さんは意気込んでいた。 体育館に多くの生徒が集まっている。箕牧さんは職員に支えられながら登壇し、大きな拍手で迎えられた。そして、79年前のあの日について語りだした。 「いつものように遊んどったらピカッと光ったんでね。これが雷くらいにしか思わなかったんです。子どもだから」 当時3歳だった箕牧さんは、広島市安佐北区飯室に住んでいた。帰ってこない父親を捜して原爆投下の翌日に広島市に入り、被爆。 「父を捜すうちに私たちがどれだけの放射能を浴びたか。私は小学5年生の12月、大病にかかりました」 目に見えない放射能が人間の体をむしばむ恐ろしさを、自らの体験を通して伝えていく。証言の内容は今までと変わらない。しかし、注目度は明らかに高まっていた。竜王中学校にかけつた報道陣の前で箕牧さんは決意を述べた。 「今回のノーベル平和賞を機に『もうひと踏ん張りせにゃいけんぞ』というのがわれわれの考えです。とにかく世界から戦争がなくなっていかないと。核兵器をなくす」