定子が皇子を産んだと聞いて急性胃腸炎で倒れる…困難な状況を迎えるたびに体調を崩した藤原道長の病弱体質
藤原道長はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「史料を見る限り、道長は困難な状況を迎えるたびに体調を崩していた。ほかの貴族と比較して病弱だったといえる」という――。 【図表】藤原家の家系図(一部) ■史料に残っている藤原道長の「病弱」 いまのところ、NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれている藤原道長(柄本佑)は、いたって健康である。 しばらく前だが、第16回「華の影」(4月21日放送)で、長兄である関白の道隆(井浦新)が、疫病が蔓延しているのになんら対策を講じなかったとき、道長が福祉施設の悲田院にみずから赴くシーンがあった。このとき、道長は次兄の道兼(玉置玲央)に、自分は病気になったりしないという旨を断言していた。 その後、兄たちが急死して権力が転がり込んでくる過程でも、名実ともに権力を掌握してからも、いまのところ道長は、健康そうに描かれている。第23回「雪の舞うころ」(6月9日放送)でも、第24回「忘れえぬ人」(6月16日放送)でも、取り立てて健康不安を抱えているようには見えなかった。 しかし、道長はのちの記録から察するにも、かなり病弱だった。道長の健康に関する記録がはじめて現れるのは、永祚元年(989)7月22日のこと。まだ権中納言にすぎなかった24歳の道長は、「光る君へ」で秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』によれば、朝廷の業務を担当するはずが、病気を理由に早退したという。 もっとも、それ以後は何年も、病気で臥せたという記録はないのだが、あるときを境に、頻繁に病気で倒れるようになる。
■困難な状況を迎えるたびに体調を崩す 長徳2年(996)12月16日、中宮定子(高畑充希)は出家した状態のまま、一条天皇(塩野瑛久)の第一皇女である脩子を出産する。 それから4カ月経った長徳3年(997)3月25日、一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)の病気が回復に向かわないため、天皇は平癒を願って大規模な恩赦を実施した。このとき、前年に花山法皇を射かけるなどして流罪になっていた定子の兄弟、伊周(三浦翔平)と隆家(竜宮涼)も赦免され、都に戻ることを許されている。 そのころ道長は病気になった。病気の記録としては、およそ9年ぶりになる。藤原行成(渡辺大知)の日記である『権記』には、6月8日、32歳だった道長が夜中に発病し、一条天皇は心配して、翌朝、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭だった行成を、見舞いに向かわせたと記されている。 道長はそれ以降、困難な状況を迎えるたびに体調を崩す。このときも、長兄である道隆の息子、伊周と隆家が都に戻ったのを受け、道隆を祖とする中関白家が復活する可能性を考えているうちに、具合が悪くなったのかもしれない。 ■体調が悪すぎて「出家したい」 次に倒れたのは、同じ長徳3年(997)の7月26日。前回倒れてから、1カ月半ほどしか経っていない。病名は「瘧病」、すなわち現代のマラリアだったとされる。 道長は7月5日に除目(諸官職を任じる儀式)を行い、藤原公季を内大臣に据えていた。こうして、道長(左大臣)、顕光(右大臣)、公季(内大臣)の3人で大臣職を固め、伊周が復帰しても上級の公卿になれないようにしたわけだが、おそらく、その間は激務をこなしたものと想像される。 このため免疫力が弱ったところで、感染症に襲われたのかもしれない。とはいえ、休んではいられないため、行成の『権記』によれば、自邸の簾の向こうから政務についての指示を出したという。 しかし、このあたりはまだ序の口で、ひどい病は年が明けて長徳4年(998)3月に道長を見舞った。それは腰病だった。 『権記』の記述にしたがうと、3月3日、一条天皇の命を受けて蔵人頭の行成が見舞いに訪れると、道長は「出家の本懐を遂げたい」と伝えたという。だが、内裏に戻った行成が一条天皇に道長の意思を伝えたところ、天皇は却下した。しかし、道長はあきらめず、3月5日にふたたび、さらには3月12日にも、つまり3度にわたって出家をしたい旨を訴えている。