定子が皇子を産んだと聞いて急性胃腸炎で倒れる…困難な状況を迎えるたびに体調を崩した藤原道長の病弱体質
■定子の出産→急性胃腸炎に 道長はこれに対抗すべく、彰子の裳着(女子の成人式にあたる儀式)を急ぎ、長保元年2月9日に執り行った。そして、11月1日には念願かなって、わずか数え12歳の彰子を入内させたが、その6日後、彰子を女御とする宣旨がくだった同じ日に、定子が親王を出産したのである。 事ここに至るまで、道長は神経を張り詰めさせ、さらにすり減らしてきたことだろう。彰子が女御になり、定子が皇子を産んで11日後の11月17日、『小右記』や『権記』によれば、道長は「霍乱」、すなわち現在の急性胃腸炎で倒れている。 以後はもうキリがない。一条天皇には定子という中宮がいたが、道長は強引な手段で彰子も中宮にした。長保2年(1000)2月25日、彰子の立后の儀が執り行われ、史上初の「一帝二后」が実現したが、それから2カ月後の4月23日、道長はふたたび発病した。 続いて5月19日には、道長に次兄の道兼の怨霊が憑き、25日には長兄の道隆が乗り移ったという。後者の場合、『権記』によれば、「伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたのだという。道長は、自身の心に巣食ううしろめたさから、道隆が乗り移ったかのような言葉を発したのだろうか。 さらにいえば、道長は飲水病、すなわち現代の糖尿病を抱えていたといわれる。道長の栄華は62歳で没するまでずっと、病気と隣り合わせだったのである。 ---------- 香原 斗志(かはら・とし) 歴史評論家、音楽評論家 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。 ----------
歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志