初のインカレ決勝進出の東洋大 躍進背景に少数精鋭の部員数、Jクラブとの人的交流、充実の練習拠点
◇コラム 大塚浩雄の「C級蹴球講座」 ◇25日 サッカー男子全日本大学選手権(インカレ)準決勝 東洋大1―0桐蔭横浜大(宇都宮市・栃木県グリーンスタジアム) 東洋大(関東地区第3代表)が初のインカレ決勝に進出した。相手は準決勝で前回覇者の明治大(関東地区第1代表)にPK勝ちした新潟医療福祉大(北信越地区第1代表)。ともに初優勝をかけて決勝に臨む”新興チーム”対決となった。 東洋大の躍進は特に著しい。2005年に関東リーグが1、2部12チームに拡大されたのにともない、2部初昇格。13年に1部初昇格も1年で2部に降格。その後は17、18、19年と1部で戦ったが、20年、21年は2部。しかし、22年に1部に昇格すると7位、6位。そして、今季は3位と創部以来のリーグ戦最高成績を残した。その勢いそのままにインカレでも快進撃を続け、ついに大学日本一に王手をかけた。 この日は主導権を握りながらも決定機を決めきれず、いやなムードになりかけた。しかし、後半33分に右CKから増田がヘッドで決勝ゴールをたたき込むと、そのまま逃げ切った。増田は「こんなに負ける気がしないチームは初めて。(リーグ戦の)後半戦から負ける気しなくて、インカレにも入ってきている。最後自信を持って戦って、優勝を決めたい」と大一番への決意を口にした。 東洋大サッカー部の部員は各学年15人。合計60人で、強豪チームとしては少ない。100人や200人は当たり前、中には500人という大所帯の大学もある中、部員全員に指導者の目が届くようにするために、部員数をこれ以上増やさない方針を貫いている。また、今季J2に復帰する大宮と提携して指導者の派遣など人的交流も行っており、4年前から監督を務める井上卓也監督も大宮の育成年代コーチ、トップコーチを務めている。 創部は1966年と古い。同好会として発足した当初はグラウンドを借りながら、転々としていた。その後は体育会に昇格したものの、東京都リーグの下部に低迷。83年に東京都リーグ1部2位となって、関東2部リーグとの入れ替え戦進出をかけた関東大会に初めて進出。翌年、入れ替え戦に進出したが、立正大に敗れて、昇格を逃した。 当時は指導者が不在だったため学生自身で練習メニューを考え、合宿や練習試合も全て学生主体で運営していた。また、埼玉・朝霞キャンパスの校舎地下室に古畳とバーベル、ダンベルを持ち込んで筋トレをしていたというレベル。それ以前は更衣室もシャワー室もなく、真冬に泥だらけの体を水道水で洗うという過酷な環境だった。 その後、群馬県板倉町のキャンパスに練習拠点を移し、人工芝のピッチを造成。朝霞キャンパスに人工芝のピッチと近代的なトレーニング施設が併設されると、朝霞に練習拠点を戻した。年々力をつけ、来年は新潟に稲村、東京Vに新井、そのほかJ2に1人、J3に3人、JFLに1人が加入する。 少子化が進む中、大学スポーツは経営に直結する。それだけにあらゆる競技で新興勢力が力をつけ、苦戦を強いられる伝統校が増えている。2年前は決勝で桐蔭横浜大が新潟医療福祉大を下し、初優勝した。大学サッカー界も例外ではない。 ◆大塚浩雄 東京中日スポーツ編集委員。ドーハの悲劇、94年W杯米国大会、98年W杯フランス大会を現地取材。その後はデスクワークをこなしながら日本代表を追い続け、ついには原稿のネタ作りのため?指導者C級ライセンス取得。40数年前、高校サッカー選手権ベスト16(1回戦突破)
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