藤本タツキ原作の映画『ルックバック』:創作の喜びと苦悩に満ちた新たな傑作アニメーションの誕生
創作者の孤独と苦悩、喜び
押山は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(09)や『借りぐらしのアリエッティ』(10)、『風立ちぬ』(13)などに作画スタッフとして携わった俊英。『ルックバック』ではキャラクターデザイン・作画監督・原画を兼任し、映画の大部分を自ら描いたといわれるように、この作品には藤本と同じ“絵描き”の、また創作者の情熱が随所ににじんでいる。 映画が始まると、カメラは満月に雲が少しかかった夜空から、回転しながら家々の光をとらえる。部屋の中には、暗い部屋でデスクライトだけをともし、右手に鉛筆を握りしめる少女の後ろ姿。なにやら考え込みながら、時々頭をかき、ひたすらに鉛筆を走らせている。机上の鏡には、彼女の真剣な表情が映る──。 たとえば、このオープニングは藤本の漫画にはなかったものだ。しかしそこでは、たった一人で机に向かいながら格闘する、創作者の孤独で静かな時間が早くもスクリーンに刻まれる。そのひそかな戦いがあるからこそ、藤野は京本の登場に心をかき乱され、絵を評価されれば大きな喜びを感じるのである。そして絵を描きつづける以上、彼女がその戦いから逃れられることはない。 原作に極めて忠実な映画化だが、押山の脚色は、全編を通じて創作者の喜びと苦悩、ひたむきさと孤独が強調されている(原作と比較すると、構成やせりふに細やかな調整が施されていることがわかる)。藤野役の河合優実、京本役の吉田美月喜も、少女/創作者たちの未成熟かつ繊細な心の動きを、ともに声優初挑戦とは思えない好演によって表現した。
「時間」を紡ぎ出すアニメーションの快感
コミックを実写化・アニメーション化した作品は、国内外を問わず星の数ほどある。しかし、この映画版『ルックバック』の特別なところは、たしかな“時間”が作品のなかに流れているところだ。漫画というメディアにはありえない“時間”が、物語にかけがえのない厚みをもたらしている。 たとえばそれは、藤野が机に向かって漫画を描いているだけの時間であり、京本の才能に挫折を味わいながら道をとぼとぼと歩く時間であり、藤野の突然の訪問に驚いた京本が家を飛び出してくる瞬間であり、自分の才能を認められた京本が雨の中を踊りながら帰る時間だ。 その“時間”のなかでは、漫画のコマの「間(あいだ)」にあったであろうものが、画面上でいきいきと躍動し、観る者の胸にそっと迫る。アニメーションならではの興奮と快感だ。 実写映画には、予想しえないものが不意に映りこんだり、奇跡としか言えない瞬間が偶然に捉えられたりする醍醐味(だいごみ)がある。しかし、人の手ですべてが描かれるアニメーションには、そんな“意図せぬもの”の介入がほとんどない。偶然に「描けてしまった」という奇跡はあるかもしれないけれど、人物の表情や身体、構図や背景、それらが混然一体となって織りなす“時間”は、ことごとく情熱と意図をもって創造されたものだ。 本作では、物語を生んだ原作者の藤本と、そこに緻密なアニメーション表現によって“時間”をもたらした押山監督ほか映画スタッフの創造性が幸福な融合を果たしている。その創造性は、劇中の藤野と京本が抱えているものともまったく同じだ。ふたりがひたすらに絵を描き、やがて大きな葛藤に直面する物語は、漫画・アニメーションというメディアを超えて、絵を描く人びとの創造性によって支えられているのである。