一年ほどいたのに紫式部は「越前」の風物の歌を一つも残さず…『光る君へ』時代考証担当が指摘する<『万葉集』大伴家持と決定的に異なる点>
◆決定的に異なる 国文学者の清水好子氏が指摘されるように、紫式部にはその後の1年ほどの越前滞在で、その風物を詠んだ歌はない。 国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう。 歌集の編集にあたって捨てたものか、それともまったく詠まなかったのであろうか。 その点、国司としての責任感にあふれる『万葉集』の大伴家持(やかもち)とは決定的に異なるのである。
◆紫式部公園 なお、越前市東千福町に作られた紫式部公園は、芝生広場の部分を除くと、ほぼ方一町の敷地を持つ。 つまり、国司の館(たち)ではなく、都の邸第(ていだい)を復元したものなのである。 寝殿造)の邸第の広さを実感するには、最適の場である。 森蘊氏が設計された庭園は、越前海岸の景観を取り入れた石組みや、洲浜・中島を配した見事なものである。 さらには、寝殿や東対屋(ひがしのたいのや)、渡殿(わたどの)、東中門(ひがしちゅうもん)、侍廊(さぶらいろう)の位置が示されているほか、太田博太郎氏が監修された釣殿(つりどの)が復元されている。 後のことになるが、治暦(じりゃく)元年(1065)9月1日に越中国司に宛てた「太政官符(だいじょうかんぷ)写」には、以下のように語られている。 当国は北陸道の中で、是れは難治の境である。9月以降3月以前は、陸地は雪が深く、海路は波が高い。僅かに暖気を待つ季節に、調(ちょう)物を運漕する。…… 豊かな大国であるとはいっても、やはり都人には北陸の気候は堪えたのであろう。 ※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。
倉本一宏
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