平成の日本政治とは?(1)経済大国に導いた「55年体制」の真実
危機感なく、冷戦の恩恵受け過ぎていた日本
それを可能にしたのが「中選挙区制」である。1つの選挙区から複数の候補が当選する中選挙区制では、自民党同士が激突し、自民党と社会党は激突しない。社会党は自民党同士の激突の間隙を縫って3分の1の議席を獲得することが出来た。ある自民党幹部は私に、社会党の議席を減らさないことが日本の国益になると教えてくれた。 岸信介は日本が自立するため軍隊を認める憲法改正を主張していたが、米国に対し社会党政権誕生の可能性をほのめかして、米国から自民党の選挙資金を引き出した。社会党政権ができないことを知りながら吉田の外交術を使って米国を騙したのである。 こうして日本は米国が要求する軍事負担を軽減し、持てる力を経済に投入して高度成長を成し遂げた。米国の歴史学者マイケル・シャラーは「『日米関係』」とは何だったのか」(草思社)で、この仕組みを「絶妙の外交術」と書いている。ただしそれは冷戦構造がなければできない手法だった。 平成を迎える4年前、日本は世界一の金貸し国となり、米国は世界一の借金国に転落した。奇しくもその年は日本政治を裏から支配した田中角栄が病で政界から姿を消し、ソ連共産党にゴルバチョフ書記長が誕生し、米国が大幅なドル安を先進各国に強制する「プラザ合意」が発表された年である。 田中が政界から消えたことは「55年体制」の終わりを、ゴルバチョフ書記長の登場は冷戦の終結を、そして「プラザ合意」は米国が日本経済に逆襲の狼煙を上げたことを意味する。急激な円高は輸出産業を直撃し、さらに日本をバブル経済に導くのである。 その2年後の1987(昭和62)年に行われた昭和最後の自民党総裁選で、竹下登は「世界一物語」を引っ提げて全国各地を遊説した。「日本の長寿は世界一、格差がないのも世界一、それが世界一の金貸し国になった」と演説して回った。竹下の言う通り、その頃の社長と新入社員の給料の差は10倍以内で、ソ連のゴルバチョフ書記長から「理想の共産主義」と称賛された。 日本は敗戦から40年で最も格差の少ない経済大国をつくり上げたが、それが平成に入ると全て音を立てて崩れ去る。冷戦が終結した後の世界を生きるには、日本はあまりにも冷戦の恩恵を受け、成功し過ぎていた。 誰も危機感を持てず、自らの将来を真剣に考えないまま、日本政治は未知の世界を試行錯誤しながら苦難の道を歩むことになった。
--------------------------------- ■田中良紹(たなか・よしつぐ) ジャーナリスト。TBSでドキュメンタリー・ディレクターや放送記者を務め、ロッキード事件、日米摩擦、自民党などを取材する。1990年に米国の政治専門 チャンネルC-SPANの配給権を取得してTBSを退職、(株)シー・ネットを設立する。米国議会情報を基にテレビ番組を制作する一方、日本の国会に委員会審議の映像公開を提案、98年からCSで「国会テレビ」を放送する。現在は「田中塾」で政治の読み方を講義。またブログ「国会探検」や「フーテン老人世直し録」をヤフーに執筆中