平成の日本政治とは?(1)経済大国に導いた「55年体制」の真実
吉田茂「軍事で負けたが外交で米国に勝つ」
私は田中角栄が「闇将軍」として権勢を誇った時期に自民党・田中派を担当した政治記者である。田中は1976(昭和51)年に発覚した「ロッキード事件」の無実を晴らすために派閥を拡大し、数の力で中曽根首相を操り、刑事被告人でありながら米国も中国もその存在を無視できないほどの力を持った。 ロッキード事件を「米国による田中潰し」と言う人がいるが、私は全くそう思わない。ここでは詳細に触れないが、田中が有罪判決を受けた後も、米国政治を動かすキッシンジャーが2度も田中邸を訪れ、日米関係について懇談しているのを私は見ている。キッシンジャーは田中に一目置いていたと私は思う。 その田中や竹下登から「55年体制」の真相を聞かされた。それはメディアが報道する「自社対立」とはまるで異なる構造だった。 戦後政治の基礎を作った吉田茂は「日本は軍事で米国に負けたが外交で勝つ」が口癖だったという。その吉田は、1947(昭和22)年の施政方針演説で「非武装中立」を宣言する。直後の1950(昭和25)年に朝鮮戦争が起きても、米国の再軍備要求を頑なに拒み続けたのは、そのためである。 我々は「非武装中立」を社会党の主張と思いがちだが、それより先に言い出したのは吉田である。そして吉田の周囲には、後に社会党左派の理論的支柱となる和田博雄や、労農派マルクス経済学者の大内兵衛、有沢広巳らがブレーンとして存在した。 和田博雄は第1次吉田内閣で農地解放を担当する農林大臣を務め、大内兵衛は吉田から請われて初代の統計委員長になり、軍国主義の日本がでたらめな統計で国民を騙した仕組みを変えた。また有沢広巳は「傾斜生産方式」を提唱して戦後復興に道筋をつけた。
過半数目指さなくても「3分の1」は取る社会党
では吉田の言う「米国に外交で勝つ」とは、どういうことか。米国に軍事で敗れた日本は、冷戦構造によって米国側につくしかない。米国も日本を「反共の防波堤」としてソ連側につくことを許さない。そのため日本は日米安保条約によって従属的な地位に置かれている。その米国に外交で勝とうというのである。 吉田は社会党を利用して米国を翻弄した。米国の強い再軍備要求をはねのけるには、平和憲法を守ろうとする広汎な国民運動がなければならない。それを社会党が主導する形にし、社会党政権が誕生すれば日本はソ連側につくことになる、と米国に思わせた。 「冷戦構造」がある以上、米国は社会党政権を誕生させるわけにはいかない。吉田の言うことを聞いて再軍備要求を引っ込め、代わりに実態は軍隊だが法的には警察という自衛隊がつくられた。妥協の産物であるため、その存在は常に日本の政治を揺り動かすことになる。 1955年に吉田派の自由党と反吉田派の日本民主党が合体して自由民主党ができても、社会党を利用して米国をけん制する手法は受け継がれた。自民党は米国から過度の要求があれば、社会党主導の国民運動を見せつけて米国をけん制した。 しかし「55年体制」は、米国に社会党政権誕生の可能性を見せても、現実に社会党政権が誕生する仕組みではない。もし社会党政権が誕生すれば、米国との関係で日本の政治は大混乱に陥る。そのため自民党と社会党は万年与党と万年野党の役割分担をした。 社会党は選挙で過半数を超える候補者を擁立しない。全員が当選しても過半数に達しないので政権交代は起きない。代わりに常に3分の1以上の議席を獲得し、3分の2の賛成が必要な憲法改正の発議をさせない。それが社会党の存在理由となり、護憲思想は広く国民に浸透した。