15歳で「生存率10%」の難病が発覚…日本ハム・山崎福也の父が振り返る「小児脳腫瘍」からの復活劇「ダルビッシュ有に力をもらった…不思議だね」
遊び相手は「ガンちゃん」「ひちょり」
「僕がグラウンドで練習を見ている間、室内練習場や寮で『お前ら勝手に遊んどけ。怪我するなよ』って。10時から3時くらいまで放ったらかしていて、選手たちは子供に構ってくれた。おおらかな時代でした。その頃のエースだった岩本(勉)や、若手の森本(稀哲)とか。アンダーシャツやバットなどの野球道具もいっぱいもらっていましたね」 父にとっては子供の相手と仕事を両立させる“折衷案”のような鎌ケ谷同伴だったが、兄弟にとっては宝物のような時間になった。今年1月、初めて鎌ケ谷を訪れた山崎は「全部懐かしい。稀哲さんとかとお風呂に一緒に入った記憶があります」などとコメントしていた。 「子供にとっては印象深かったんでしょうね。僕は(そのコメントを)見るまですっかり忘れていましたよ。確かに風呂にも一緒に入らせてもらいましたし、選手のサインなんて全員分ぐらいもらってたんじゃないかな。選手寮にたくさん飲み物が置いてあるでしょ。福也なんか帰りにジュースを鞄パンパンに詰め込んでいて『1、2本にしとけや! 』ってよく叱っていました(笑)」
母「あなた関心ないの?(怒)」
兄弟は、札幌移転前の日本ハムの本拠地である東京ドームや、自宅がある所沢に近い西武ドーム(現ベルーナドーム)にも度々試合を見に行った。小学校に入り少年野球を始めるとその熱はさらに上がったが、章弘さんは必ずしも息子たちに自分と同じ野球をやらせたいとは思っていなかったのだという。 「全然なかったです。小さい頃キャッチボールの相手くらいはしたけれど、野球のことでああしろこうしろなんて言ったことは一度もないです。時間がなかったし、子供達が野球をやっている姿も実はそんなに見たことがないんですよ」 指南役を務めたのは、元プロ野球選手の父……ではなく、母の路子さんだった。学生時代にソフトボール部だったという経験を活かし、兄弟の練習相手を務めた。家の中でも、バドミントンの羽根を使った打撃練習などで自らトスを上げ、アドバイスをしていた。 「(夫人は)熱心で、試合のビデオを撮ってきて家に帰ったらすぐにテレビに繋いで映していました。ピッチングもバッティングも映像を見ながら『ここが悪い』なんて細かく指導しながらね。僕は全く付き合わなかった。たまに『でしょ? 』って振られて『そやな』って答えるくらい(笑)。嫁さんからは『あなた関心ないの? 』ってよく怒られましたよ。もちろん関心がないわけないですけど……でも今思えば、僕の方がうるさく言わなかったのはバランス的にも却って良かったのかもしれません」
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