大阪のヒツジ年へタイムスリップ ── あの時あなたは何をしてましたか?
1955年(昭和30)・靱公園が市民に開放され2代目グリコ看板登場
第2次世界大戦終結から10年。8月15日、大阪市中之島で「終戦10周年世界平和祈願国民大祭」が開催された。大阪人は焼け跡の廃墟からたくましく立ち上がったものの、復興の行方はまだ手探りだった。 10月、靱(うつぼ)公園が市民に開放された。周辺は戦後進駐軍に接収され、靱飛行場として利用されていた。1952年(昭和27)の講和条約発効に伴い、日本に返還され、市民公園として平和利用されることとなった。東西に細長い公園のかたちは、かつての軍用飛行場の記憶を今も留めている。 道頓堀・戎橋のそばに、2代目グリコ看板が設置され、市民らを喜ばせた。1935年(昭和10)登場の初代グリコ看板は人気を博したが43年(昭和18)、戦局の悪化で鉄材供出のため撤去された。2代目のネオン塔はアーチ状のデザインで、ステージをセット。ロカビリー大会などでまちに華やぎを添えた。 12月5日、大阪市電の運賃が13円に値上がりした。運賃が1円単位で設定されていたことがうかがえる。電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビを「三種の神器」と呼んだが、市電で通勤通学している庶民には高根の花だった。60年後の2015年、LEDで新調なった6代目グリコ看板には、大阪の1年を明るく照らし出してほしいものだ。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)