大阪のヒツジ年へタイムスリップ ── あの時あなたは何をしてましたか?
1979年(昭和54)・西日本一の高さを誇る大阪駅前第3ビルが竣工
JR大阪駅の南側。「大阪駅前ビル」と統一された名称のビルが、西から東に向けてL字型に並ぶ。上空から見下ろすと、西から東へ順に第1ビル、第2ビル、第3ビルで、第4ビルの北側に第4ビルが建つ。Lの字の中心部分にある第3ビルが竣工したのが、79年(昭和54)だった。 終戦直後の焼け跡闇市の名残が漂う駅前区域で、行政主導型の大規模な再開発プロジェクトがスタート。第3ビルは駅前ビル群でもっとも高く、地上34階地下4階、最頂部で142メートルの高さに達した。のちに「ツイン21」に抜かれるまでは、「西日本一の高さ」を誇る超高層ビルとして君臨していた。 33階のレストラン街では、全方位の展望が最大のアピールポイント。東は生駒山、西は淡路島まで一望できる「駅前絶景」を目当てに、ビジネスパーソンや家族連れで盛況だった。 「オダサク」の愛称で知られた大阪出身の無頼派作家織田作之助の実姉が、府立中之島図書館に寄贈したオダサクの草稿、書簡、日記などの資料の整理が終わり、オダサクの33回忌に当たる1月10日から、一部が公開された。オダサクは自身の体験に基づく「夫婦善哉」など、大阪の庶民の喜怒哀楽を描いた作風で定評があった。 4月の府知事選で現職の黒田了一候補を破って、保守中道共闘路線の岸昌(さかえ)候補が当選。黒田共産府政に幕が下りた。
1967年(昭和42)・足元を見直し西町奉行所跡などを市顕彰史跡に指定
1970年(昭和45)、大阪で開催予定の日本万博へ向け、動きが加速した。1月、万博会場の配電計画で、関西電力が日本初の無停電・完全地下方式にすると発表。さらに同月、関西経済団体と大阪府市首脳が「政府は会場建設予算を早急に決定せよ」と迫る万博成功に向けた決議を共同で行った。3月には万博会場で担当大臣らが出席して建設起工式が開催された。 グループ・サウンズ(GS)ブームが続く11月、奈良のあやめ池公園で開かれたザ・タイガースの野外公演で、詰めかけた観客が将棋倒しになり、多数の負傷者が出た。この事故の影響で、ザ・タイガースは内定していたNHK紅白歌合戦の出場が見送られたとの情報が流れた。 ザ・タイガースは京都の若者たちが結成したが、実力を磨いたのは大阪だった。戎橋の東南詰にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」で出演中、スカウトされ上京すると、またたく間にスターダムにのし上がった。GSブーム最後発の人気グループオックスもナンバ一番から巣立って行った。同店のあった一角には現在、大手ソフトレンタル店のビルが建っている。 日本初の万博や新しい音楽への関心が高まる中、足元の歴史文化を見直す動きもあった。大阪市文化財顕彰委員会が、西町奉行所跡(中央区)、天下茶屋跡(西成区)など5か所を市顕彰史跡に指定した。 江戸期の大坂では、東町と西町のふたつの町奉行所が設置され、市民を対象に警察、司法、行政の裁きを丸ごと担っていた。西町奉行所は現在の大阪商工会議所ビル一帯に広がっていたとされ、現在、マイドームおおさか前に顕彰碑が立っている。