「不仲って本当ですか!」成田空港で集中砲火…それでもミイはなぜ「ピンク・レディーのアメリカ進出」を後悔していないのか
禍福はあざなえる縄の如し。成功の傍には、転落の穴がぼっかりと口を開けて待っているのが世の常だが、昭和を代表する女性デュオも同様である。「ピンク・レディー」解散のきっかけは、絶頂期に決まった「アメリカ進出」だった。 【写真】進化を止めない60代! ケイの弾ける笑顔としなやかなダンス 帰国に際し流れた不仲説を覚えているファンも多いだろう。アメリカで出演していた冠番組が好評だったにもかかわらず帰国を選んだのはなぜだったのか。嵐のような「アメリカ進出」とその舞台裏をミイ(現・未唯mie)本人が語った。 (「週刊新潮」2015年8月25日号別冊「『黄金の昭和』探訪」より「『スーパースター』運命の一日 ピンク・レディー:日本芸能界をすべて敵に回したアメリカ進出」をもとに再構成しました) ***
米プロモーターから申し出が
「世界デビューをすることになったから、レコーディングに行こう!」 ピンク・レディーのミイとケイがそう告げられたのは、昭和53(1978)年夏のこと。レギュラー番組収録中の空き時間、突然マネージャーの口からそんな言葉が出たのである。 その頃のピンク・レディーの人気は頂点にあった。「UFO」「サウスポー」「モンスター」と出す曲、出す曲が100万枚を突破。7月23日に行った後楽園球場でのコンサートは、チケットがあまりに売れすぎたため翌日の追加公演が決定され、計7万人を動員した。 この時に視察に訪れていたアメリカのプロモーターの目に留まり、プロデュースの申し出があったという。 「それはもちろん驚きましたよ」 と振り返るのは、ミイ本人である。 「だって、私はまだデビューして2年の20歳でしたから。ただ、事務所の方針には絶対服従でしたし、デビューの頃から『ゆくゆくはアメリカに進出させたい』と言われていたので、それが私の夢になっていました。『どんな曲が頂けるのかな』『向こうのレコーディングってどんな風だろう』と、とっても楽しみでした」
現場には常に英語教師が
こうしてアメリカ進出の準備が始まった。 「日本の仕事も忙しかったので、2~3日アメリカに渡ってレコーディングして、また戻ってくるという日々。デビューシングル発売までの半年ほどで23往復もしたので、大使館から目を付けられて、『就業ビザを取りなさい』と説教されたこともありました」 海外進出なら英語力も必須だ。英会話スクールにも通わされたし、現場には、常に北欧出身の女性の家庭教師が付き添うことになったという。 「いつどんなところでも、英語に触れさせておこうとしたのでしょう。現場で急ぎ着替える時でも横にいるので、彼女に『ファスナーを上げて!』と頼んでも『in English?』と問い返してくる。『ああ~もういい!』とケイにファスナーを上げて貰ってスタジオに出ていくなんてこともありました」 坂本九のケースなどは別にして、当時は日本の歌手の全米展開など、ほとんど例がなかった時代。冒頭のマネージャーの言葉は、2人の運命を変える一言となったのである。