奥田瑛二「俳優としての奥田瑛二はさよならだって」葛藤の末にたどり着いた答え
歳を増すごとに人間としての深みが濃くなっていく感のある俳優・映画監督 奥田瑛二。1980年代のトレンディドラマの代名詞ともいえる『男女7人夏物語』をはじめ、『海と毒薬』、『千利休 本覺坊遺文』、『式部物語』などの海外での評価の高い作品にも出演。93年に公開された映画『棒の哀しみ』で国内で多くの賞を受賞し、その印象が強いこともあってか、アウトロー的なイメージが強い。一方では映画『少女 an adolescent』、『るにん』などで監督を務めるなど多岐に渡り活躍を続ける奥田にとっての「THE CHANGE」とは──?【第1回/全4回】 ■【画像】45歳で8つの主演男優賞を受賞した奥田瑛二が心がけた”芝居じゃない芝居“子役の中須翔真との印象的な1シーン ダンディなスーツ姿で取材会場に現れた奥田さん。1979年に公開された『もっとしなやかに もっとしたたかに』で映画初主演を果たし、俳優として数多の映画、ドラマで魅力的な役柄を演じてきた。 「42歳ぐらいの時に、“映画俳優になった”という自覚を掴んでしまったら自分はどうしたら良いんだろうって考え出したんです。そして、45歳になった時に『棒の哀しみ』で、8個の主演男優賞をいただきました。それで覚悟が決まったんです」 1994年に公開された映画『棒の哀しみ』でブルーリボン賞をはじめ8つもの主演男優賞を獲得した奥田さんは、自身の中で映画俳優としてのひとつの頂点を極めたことを感じたという。 そこで、奥田さんが導き出したひとつの解は「俳優を辞める」ことだった。 「もちろん、周囲に人からは“待て待て待て。辞めるなんて考え直せ”と言われましたよ。でも、自分の中では42歳ぐらいの時から考えていたことだし、それまで様々な独立系のプロダクションで若手監督と一緒に映画を作ってきたから、監督業には僕の中ではもう半分くらい足を踏み入れていた感じだったんです。だから、俳優としての奥田瑛二はさよならだって」
監督を天職とし、俳優を適職とする
周囲の猛烈な引き留めに奥田さんは一旦考え直し、50歳になったら監督をやるということにした。その間は、それまでと同じように俳優をやり続けていたが、自分の中でどうにも納得がいかない。そこで考え付いたのが、「監督を天職とし、俳優を適職とする」ことであった。 それから、今日までの四半世紀ほどは監督と俳優の二足の草鞋で生き抜いてきた。その間、自身の中で俳優業に対して向き合い方に変化があったという。 「やっぱり、本当にやりたいもの(役柄)って、“人間として、どうなんだ”ということに向き合えるような役。そこにサスペンス的要素が盛り込められてると、演者である自分も自然とテンションが高くなる……もっと言えば、エンターテイメントがありながらもバーンと射貫くようなものをやりたいなって」 撮影現場では俳優という適職を全うしようとする奥田さん。一俳優として、近年は”モノを作る“ということに対してのスタッフの心構えに疑問を感じることもある。 「最近はオファーの話を戴いて“スケジュールが埋まっていて……”とお断りすると、“そうですか”で終わっちゃう。そういうやり取りを電話やメールだけで終わらせている俳優側にも問題があると思うけど、今回の『かくしごと』はちゃんと熱意があって、直接説明をしに、事務所へ来てくださって。それで受けてから、こちらも準備を整えなきゃいけないという自己責任が生じて臨むわけだけど、そうすると自ずと意気込みも違ってくるんですよ」 今回出演した映画『かくしごと』はひとことで言うとヒューマン・ミステリー。奥田さんが演じたのは主人公・千紗子の父で認知症を患っている孝蔵役だ。 「認知症のことは僕の妻である安藤和津さんのお母さんが13年ぐらい認知症を患っていて、僕もお世話をしたりして、経験していますから身近には感じていました。でも今回のお話は、けっして認知症だけの話じゃないんですね。主人公の女性は過去に傷を抱えているんですが、ある日一人の少年を救ったことから、ひとつの物語が生まれ、もうひとつの物語の柱として娘と認知症の父の話があって。そこに僕の存在がどう成立して、物語が進んでいくか……というところに惹かれて、この映画に参加したいなと思いました」