白洲次郎と白洲正子、小林秀雄を祖父母に持つ白洲信哉さんが語る、白洲式“見る眼の育て方” ─ 幼少期から一流に触れて育つ
連載「白洲式“見る眼の育て方”」では、幼い頃から一流のものに触れて育ち、伝統や文化に造詣が深い白洲さんから、モノの見極め方やセンスの磨き方を学んでいきます。今回の第86話「神在月 出雲」では、日本の伝統的な祭りや神社についてご紹介します。 ▶【写真集】2024年11月9日(土)まで、伊勢神宮での参拝をゴールとした新しいツーリングイベント「おかげ参りツーリングラリー」が開催中。伊勢神宮までのツーリングの道中で、寄るべき&走るべきスポットを紹介。
神在月 出雲
今年は残暑というより9月下旬まで夏本番の猛暑、田んぼでは稲刈りも終わり新米のニュースに、先だっては仲秋の名月だったと言うのに、気候が伴わないと秋への情緒が調和してこない。 実りの秋と言って真っ先に浮かぶ新米、その収穫祭(37話)については以前触れたので繰り返さないが、縄文末から弥生時代以降米を主食にわが国の生活があり歴史が育まれてきたのである。コメとは神聖なるもの、生命力が「籠められた」ことに由来し、「米」の字にも「八十八もの手間をかけてつくられる」意味が込められており「八十八のカミが宿っている」と言われている。 中でも10月半ばに天照大御神に新穀を献上する伊勢神宮の「神嘗祭(かんなめさい)」は、まさしく「神の饗」が転じたとされる「神嘗」にふさわしい祭典だと思う。神宮の祭りは、年間1800以上あるというが、日々祈りの積み重ねが神宮の歴史であり、祖先の経てきた足音なのだと思う。その祈りの中でも「神宮の正月」と言われ、最も重儀なのが神嘗祭ですべてが新しくなる。ちなみに6月と12月の月次祭と合わせて三節祭と呼ばれている。 祭主は伊勢神宮の最高巫女斎宮が務め今でも上皇の長女、つまりは今上陛下のご兄弟黒田清子様が皇女の伝統に習ってお勤めであらせられる。斎宮は長い歴史の中で紆余曲折あるもののなんという伝統であろうか。わが国は天孫降臨の時代から、「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の王となった天皇家への宗教を超えた伝統と祈りが支えているのだ。 昨今パワースポットとか言われているが、カミサマは定住してはいない。マツリの一瞬闇の中に降臨するものだと僕は思っているが、「何事かおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」(西行)と直に感じられる瞬間がある。機会があれば是非神宮の神嘗祭に参拝し感じてほしいと思う。ちなみの本年は「十三夜」のおまけ付きだ。 さて、旧暦の10月を「神無月(かんなづき。かみなづき、かみなしづきとも)」とか「神去月(かみさりづき)」と言う。日本中の八百万の神々が出雲へ参集するため、各地は文字通りお留守、「神無し」になることに由来する。反対に出雲では「神在月(かみありづき)」と言い、神々をお迎えし、およそ一週間来年の石高や天候を占ったりさまざまな「神議」がされる。神無月の行事は旧暦で行われることが多いが、出雲では新暦の11月に行われているという。 「イヅモ」。僕の中では先の「イセ」と対極であり、国つ神(クニツカミ)最後の砦得体の知れない謎に満ちた場所である。大和政権の成立過程で、出雲が果たした役割は大きかったが、天つ神(あまつかみ)はやすやすと全国を支配したわけでなく、オオクニヌシ(大国主)への国譲りも、最初の使者アメノホヒ(天菩比神)は3年戻らず、アメノワカヒコ(天若日子)は8年音沙汰なく、次のナキメ(鳴女)に至っては殺されてしまう。そして最後のメッセンジャーであるタケミカヅチ(建御雷神)が「否(いな)然(さ)」と国譲りを迫った稲佐浜の直談判に至り妥結するのである。 今でも出雲大社近くにあるこの浜で「神迎え」の神事が行われる。神話では「天の御舎」と引き換えに、国譲りが叶ったように読めるが、東に伊勢神宮を建立し、苦心の末に支配した結果のように思う。地政学的にも大和を挟んで、日が昇る明るい伊勢に対し、日の沈む出雲は「根の国」、最果ての闇の王国の気配がする。 古事記にも、イザナギノミコト(伊邪那岐命)がイザナミノミコト(伊邪那美命)を、「出雲国と伯伎国(ははぎのくに)との堺の比婆の山に葬りき」とあり、黄泉の国への入り口を暗示させる。また高天原を追放されたスサノヲ(須佐之男)が、「僕は妣の国根の堅州国に罷(まか)らむ……」と出雲と黄泉の国は一体であるように記されている。黄泉(よみ)は闇(やみ)の母音が転じた語と考えられているが、天上に対する地下世界のように描かれている。 「神迎え式」ではセグロウミヘビをご神体としていたが、地下に住む蛇は神話の世界では大活躍である。神奈備(かんなび)三輪山の神蛇や海神・豊玉姫(とよたまひめ)が蛇体となったことなど、マジカルな能力が神聖化されたものである。そこには畏敬と嫌悪が裏腹で、「忌み」として崇めたのであろう。出雲各所の神在祭を俗に「お忌みさん」とも呼ぶが、頑固な古層のカミは健在なのである。 だが、なぜ最果ての地に巨大な神殿が建てられたのだろうか? 大国主神(おおくにぬしのかみ)と言っても、大穴牟遅(おおあなむじ)、大物主、葦男色許男(あしはらしこお)、八千矛(やちほこ)など日本書紀では7つの名(古事記では5つ)を持ち、相当に複雑な履歴を示しているように思える。 大和に政権が誕生する以前仮に三輪王国と呼ぶとするなら、その一族のリーダーが大物主であり大穴牟遅だった。おそらく出雲の「国引き・国造り・国譲り」の神話が物語として編集される過程で、出雲がなければ日本国そのものの礎が築かれなかったことを配慮し、暗に記したかったと言ってもいいように思う。 ずいぶん前のことであるが、出雲大社ご本殿修造の特別拝観に参列し、神宮の檜の清楚で凛とした女神のたたずまいとは対照的な、杉材を用いた豪快で力強い男神の住処との印象が強く残っている。心御柱(しんのみはしら)は黒光りし、天井の八雲之図は昨日描いたかのように鮮やかだった。 荘厳な大社は多くの名を持ち、国中に跋扈(ばっこ)していた手強き部族の象徴的存在だった大国主へのご褒美で、「吉備大臣入唐絵詞(きびだいじんにっとうえまき。ボストン美術館)」に描かれた見上げるような神殿が存在したと僕は信じているし、日本人として神宮とセットの一度は参拝するべき大社の一つである。
白洲信哉