ノーベル平和賞機に坪井直さんの遺志継ぐ決意新た…核兵器廃絶へ「ネバーギブアップ」
運動引っ張る信念
いつも坪井さんが口にしていた〈ネバー ギブ アップ!〉とつづられていたのは12年。〈老いた馬は、路を忘れずとか〉などとも記し、運動を引っ張る信念がにじむ内容だった。 〈変革を志す者 夜明けに向って飛び出そう〉(2011年)、〈生きて、卒寿を迎えしも、未だに、夢は成就せず、苦界の道に力試さん〉(15年)……。力強いメッセージが目立つ中、山中伸弥・京都大教授がiPS細胞(人工多能性幹細胞)作製でノーベル生理学・医学賞を受賞した直後の13年の年賀状は少し趣が異なる。科学の進歩に期待を寄せつつ、〈されど、核の二の舞いは厳禁だよ〉とリスクへの警句を残した。 植田さんは今も年数回、広島を訪れた修学旅行生らの前で証言活動を行っている。「ノーベル賞をきっかけに世界の関心は高まるはず。命ある限り、核なき世界を目指す次世代の人材を増やしていきたい」。気持ちを奮い立たせ、坪井さんの遺志を継いでいく。
「ピカドン先生」
坪井さんは広島工業専門学校(現・広島大工学部)3年だった20歳の時、爆心地から1・2キロで被爆。全身に大やけどを負い、40日間意識不明となったが、一命を取り留めた。その後、中学教諭となり、被爆体験や核兵器の恐ろしさを生徒らに語り、「ピカドン先生」と呼ばれた。 退職後、本格的に被爆者としての運動を開始。2000年に被団協代表委員に就任し、同年、米ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、本部前で核廃絶をアピールするなど、世界中を飛び回って、核兵器のない世界を訴えた。 16年にオバマ米大統領(当時)が現職として初めて広島を訪問した際には、広島市中区の平和記念公園で出迎え、握手を交わした。