<社会インフラを行く!>帝都東京を飾るツインゲイト「永代橋」「清洲橋」
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、関東地方一円を襲った「関東大震災」により、死者行方不明者は10万人を超えた。凌雲閣や建築中だった内外ビルディングをはじめとした建物や橋梁が崩壊した。かくなる大惨事の中、「復興は橋より」が復興事業の合言葉のもと、帝都東京の復興は橋梁から始まったという。 清洲橋と永代橋は、ヨーロッパに先進事例を求めている。構造形式に変化を付け、同じものがないように設計されたと思われる。構造の違いによって、女性らしさと男性らしさの対で語られることも多い。
清洲橋(186メートル)は、中央区中洲と江東区清澄を結ぶことから、こう名付けられた。「放物線状の吊鎖と主桁等よりなる洗練された造形」(日本大学理工学部教授)であり、華やかな鋼のレースのように見えなくもない。夜には、女性らしさを意識してか、ピンク色で電飾される。 対となる永代橋(約185メートル)の名は、五代将軍徳川綱吉が50才を迎えたことを祝ったからだとか、永代島に架けられたからと諸説ある。この構造は「放物線状の大規模ソリッドリブアーチを中心として、桁高を巧みに変化させた鈑桁(ばんげた)を左右に連続させる荘重な造形」(同)である。この荘重さが男性的であることの所以であろう。夜は、男性らしく青くライトアップされるのである。
東京・隅田川にかかる橋梁は、90年経た現在「帝都たるに相応しい理想的な都市デザイン」(土木学会)として実現したと言える。なかでも清洲橋と永代橋は、「近代橋梁技術の粋を集めて造られた隅田川震災復興橋梁群の中核的存在」として、第一回選奨土木遺産(2000年)に選ばれている。2007年には、これら二つの橋梁は、勝鬨橋とともに国の重要文化財に指定されている。 清洲橋、永代橋からすれば、平成期のビルやタワーは“孫世代”といったところか。夜の帳が下りれば、大正末期から昭和初期に建設された復興橋梁を、現代の高層ビルやスカイツリーが優しく見守っているようにも思われる。 (監修:吉川弘道・東京都市大学教授)