女性投資家第1号 極秘情報早耳で巨利 糸平、弥太郎の陰に富貴楼お倉あり
西南戦争勃発の直前、富貴楼で岩崎と大久保利通、大隈重信の極秘会談が開かれた。 「この会合は遂に成功して、160万円を政府より三菱に補助し、4隻の汽船を買い入れさせた。岩崎はお倉に報酬として三菱汽船の株を与えた。この株券はのち日本郵船に書き換えてあるはず」(小野蕪史著『英雄と女』) お倉は田中平八と岩崎弥太郎という19世紀を代表する経済巨人と手を取り合い、その一方で伊藤、大隈ら大物政治家とも親密このうえなく、明治裏面史に大きな足跡を残した。彼女の最大の財産は人脈であった。 晩年、お倉が病床に伏すと新聞は連日、その病状を詳しく報じた。死の直前、大隈はお倉について語った。 「今でも郵船株、正金銀行の株、公債証書など持っているようじゃ。お倉はよくもうけ、よく散じた」 お倉の気風のよさにひかれて政府高官たちはよく横浜にやってきた。東京では人目に付きやすいこともあって高官たちは横浜を好み、富貴楼は繁盛した。中でも1871(明治4)年、岩倉具視右大臣を全権大使とする欧米使節団一行40余名が米国汽船アメリカン号で出帆する際のにぎわいぶりは格別だった。 「富貴楼はその歓送会場となり、大隈、井上、山県諸公が見送り一行とともに宿泊までした。横浜花街空前の大盛況と称され、遠く東京、新橋、柳橋の芸妓の応援を求めるほどの騒動であった。この時は会計一切を陸奥宗光が取仕切り、祝儀に出した額だけでも銀貨100両だったという」(加藤藤吉著『日本花街志』) 横浜花街を代表する烈女としては岩亀楼の遊女喜遊がよく知られている。有吉佐和子の小説『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のヒロインで舞台にもなった。アメリカ人を客とするくらいならと割腹して果てた喜遊も凄いが、お倉も惚れた男にはとことん入れあげた。 「お倉が男に好かれると同時にお倉もまた男好きであった。自分の好いた男を、そのままにしておけない質で、自ら進んでその男と関係をつける。他の女には指を触れさせないようにして一人楽しむ風であった」(伊藤痴遊著『痴遊随筆』) 重要な会議が開かれるときはほかの一切の客を断って日ごろ出入りの者でも中に入れなかったという。 以前、お倉の墓を訪ねたことがある。京浜急行黄金町駅から徒歩10分で東福寺がある。裏山はおびただしい墓石群だが、ひときわ立派な墓に「宝善院心色貴倉妙照大姉」と刻まれていた。 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 富貴楼お倉( 1837-1910 )の横顔 本名は斉藤たけ。天保7年江戸生まれ、20歳で新宿で遊女となる。明治4年、相場で財産を築いた「天下の糸平」田中平八の支援で、横浜に料亭、富貴楼を開いた。ここには田中を始め渋沢栄一、岩崎弥太郎ら経済人、大久保利通、伊藤博文、大隈重信ら明治の元勲たちが盛んに出入りした。「横浜閣議」という言葉も生まれるほどであった。