女性投資家第1号 極秘情報早耳で巨利 糸平、弥太郎の陰に富貴楼お倉あり
現在は個人投資が広がり、女性投資家の存在も珍しくない時代となりました。明治初期は男性社会で当然、投資の世界も然り。しかしその中で女性投資家として活躍する人物がいました。本名は斉藤たけでしたが、料亭の女将だったので「富貴楼お倉」と呼ばれていました。経済界、政界の大物たちと懇意にする彼女の最大の武器は、その人脈から得る情報。その有益な情報得るために天下の糸平や岩崎弥太郎もお倉の料亭富貴楼の常連客になったといいます。女性投資家の先駆けとなったお倉の投資手法について、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
女性投資家の先駆け、富貴楼お倉
富貴楼お倉は近代日本における女性投資家の第1号ともいうべき存在である。名著『北浜盛衰記』の著者松永定一はこう記している。お倉の名は大阪北浜でもとどろいていた。 「婦人投資家として有名だった人に料亭『富貴楼』の女将お倉さんがある。伊藤博文、陸奥宗光などに引き立てられ、情報入手に特別の便宜があったせいか、よくもうけ、よく使ったという話だ。いつの時代でも特殊の立場にある人は、機密が早耳できるので大きな財産をつくることができる」 お倉は明治の初め、横浜相生町で富貴楼を開業するが、3年目に火事に遭い、丸焼けとなる。だが、少しも騒がず、尾上町の埋立て地を200坪余り買い入れ、豪壮な料亭を新築する。正面玄関の額「富貴楼」は伊藤博文の筆による。新装成った富貴楼は政財界の大物が秘密会談にしばしば使った。後に三菱王国を築き上げた岩崎弥太郎が巨富をつかんだ裏には富貴楼を舞台に、お倉に取り入れ、暗躍したためという説もある。 また「天下の糸平」は富貴楼の最大のスポンサーで東京隅田川左岸、木母寺の境内に「天下之糸平」碑が立つ。表の五文字は伊藤博文が筆を執ったものだが、裏には財界の大立物がズラリと並ぶ。高島嘉右衛門、渋沢栄一、渋沢喜作、大倉喜八郎、雨宮敬次郎、茂木惣兵衛……、彼らに伍してお倉の名も刻まれている。糸平は生糸やドル相場で大きな勝負に明け暮れていたが、毎晩のように富貴楼を訪れた。 「平八さんは生糸、ドル、米の相場でしたから町で起きていること、人の動き、だれがなんと言った、だれがどこへ行ったといったことを、人より早く知ろうとしました。ですから女将にも芸者さんにも好かれようとしたのである」(鳥居民著『横浜富貴楼お倉』) 糸平は情報収集のため富貴楼の客となるが、その結果下す糸平の売買判断に、お倉はチョウチンをつけた。2人は相場作戦上のよきパートナーであった。岩崎弥太郎とお倉の間もビジネスで強く結ばれていた。