マリオの生みの親・宮本茂が仕掛ける「任天堂」進化計画は止まらない!
2024年10月にオープンした「ニンテンドーミュージアム」は、「任天堂」が単なるゲームソフト・ゲーム機器メーカーではなく、世界的なエンタメ・ブランドの地位を確立したことを証明しているかのようだ。米「ニューヨーク・タイムズ」紙の記者が同施設を訪れて任天堂の歴史を辿り、宮本茂に今後の展望を聞いた。 【画像】入場券は完売状態 気になる「ニンテンドーミュージアム」の中身 宮本茂(71)が任天堂の全新入社員に向かって要求することは、少なくともここ30年間変わっていない。 「スーパーマリオに関するものすべてが好きなら、3000万本は売れそうなゲームを作ってください」 15億ドル(約2240億円)を超える大ヒット商品を作れという壮大な要求も、宮本の口から出るのであれば致し方あるまい。眉を吊り上げて微笑むこの70代の人物は、ウォルト・ディズニーも顔を赤らめるほど万人から愛されるゲームカルチャーを次々と送り出してきたのだ。 任天堂社内における宮本は、新規顧客層に対する任天堂ブランドの認知と、収益源の拡大に向けた戦略計画も練る。現在、任天堂の取締役を務める彼は、「エグゼクティブフェロー」の肩書も持っている。他社の場合、それは新製品の開発を監督する最高クリエイティブ責任者(CCO)とみなされてもおかしくない。 スーパーマリオ、ゼルダ姫、ドンキーコングといったゲームキャラクターを生み出し、任天堂に莫大な利益をもたらした宮本は、ブレザーに会社のロゴ入りシャツという、風采の上がらないサラリーマンのような服装で現れた。 多数のゲーム制作で顧問を務め、「Wii」や「Nintendo Switch」の開発にも貢献した宮本だが、近年は将来の任天堂を支えてくれると期待される映画、およびアミューズメントパーク分野に注力する。宮本はこう話す。 「実は、なぜ自分がそのようなものを作るのか、自分でもよくわかってないのです。自分が面白いからやっているだけ。それが原動力なんです」 インタビューは、10月2日にオープンした「ニンテンドーミュージアム」でおこなわれた。そこでは、1880年代に日本初の手製トランプを販売していた企業が、ビデオゲーム開発会社へと進化したほぼ100年の会社の歩みが展示されている。 このミュージアムは当然のことながら、宮本が1977年に入社して以降の、「任天堂第2章」的な展示品で埋め尽くされている(京都郊外の英語教師だった宮本の父親が、当時任天堂社長だった山内溥との面接をお膳立てした)。 4年後の1981年、宮本はドンキーコングのアーケードゲーム機版を開発した。マリオの初期バージョンキャラクターが登場した同ゲームは世界的なヒット作となり、彼は任天堂にとって欠かせない存在となる。 「当時、山内から、『ウチはケンカが不得手。弱いから、他社とケンカするな』とよく言われました」と明かし、同社が長年、オリジナリティを追求してきた理由を説明する。 宮本は山内から受け継いだこの目標を、ドンキーコングの開発仲間だった横井軍平とわかち合った。横井はのちに携帯ゲーム機「ゲームボーイ」を開発した。同僚としての横井との関係は当初、よそよそしかったという。 「互いに話し合い、彼からフィードバックしてもらった。批判的なものもありました」 それにもかかわらず、2人は親しくなっていった。横井は宮本の結婚式に立会人として出席し、横井が早世すると、宮本は横井の未亡人と連絡をとり続けた。 宮本が最近手掛けたゲームを見れば、任天堂のオリジナリティへの飽くなきこだわりが見てとれる。拡大解釈すれば、制作コストをかけた非常にリアルなグラフィック主導型のゲーム業界に真っ向から対立するアプローチでもある。 「逆張りありきの逆張りのようにも見えますが、実際は、任天堂を他社と一線を画する特別な会社にしているものは何かを見つけようとしているだけです」と宮本は言う。 「たとえば、いまはAI絡みの議論が盛んです。こうなると、誰もが同じ方向へ向かいはじめるものですが、こういうときこそ任天堂は違う方向へ進んでみたい」 ニンテンドーミュージアムそのものは、任天堂の歴史における最新の第3章、つまりビデオゲーム開発会社から、世界的エンターテインメントブランドへの転換を象徴している。このコンクリートの建造物を通じて、任天堂は(おそらく初めて)、ポップカルチャーに不動の地位を築いたと宣言しているのだ。