兄亡くした悲しみ癒えず 遺族の守田さん(奄美市名瀬) 対馬丸事件から80年
太平洋戦争中、沖縄から長崎に向かっていた疎開船「対馬丸」が米潜水艦に攻撃され、乗船していた集団疎開の学童など1484人が犠牲となった事件から22日で80年となる。那覇市出身の守田アキさん(90)=鹿児島県奄美市名瀬=は、那覇国民学校に通っていた兄の宮里秀雄さん(当時14歳)を亡くした。14日、平和学習事業で奄美大島を訪れていた沖縄の児童らに、当時の記憶や兄への思いを初めて明かした。 対馬丸は1944年8月21日、学童や一般疎開者を含む1788人を乗せて那覇港を出発。22日、悪石島沖で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。 一部の生存者や遺体は奄美大島にも流れ着いた。住民らが救助や遺体回収に当たった宇検村の船越(ふのし)海岸には、2017年に慰霊碑が建てられた。 守田さんは、8人きょうだいの四女として沖縄で生まれ育った。三男の秀雄さんとは年が近く、互いにあだ名で呼び合うほど仲が良かったという。秀雄さんが学童集団疎開で対馬丸に乗り込み那覇港を出発した日、守田さんは家族と兄を見送った。「(秀雄さんは)友達と一緒に内地に行けると喜んでいた。『秀ちゃん先に行っとってね。次の船に乗るからね』と声を掛けた」と当時の記憶を振り返る。 秀雄さんが帰らぬ人となった約1週間後、何も知らない守田さんと家族は貨物船で一般疎開者として熊本に渡った。「向こう(本土)に行ったら会えると思っていた」と守田さん。秀雄さんが亡くなったと知り「ショックだった」。 息子を亡くした悲しみからか、守田さんの母はたばこを吸い始め、食事もあまり取らずに痩せていった。水に濡れた秀雄さんが「寒い、寒い」と訴える夢をみると話していたという。「母としては帰ってくると思っていたんじゃないか。船は沈んでもどこかの港で助けられているんだと」 熊本での疎開生活を経て戦後に沖縄に戻った守田さんは、20歳ぐらいの頃に就職のため神戸に渡った。そこで出会った奄美大島出身の男性と結婚。関西でしばらく暮らした後、夫の古里に移り住んだ。 奄美では、生存者を救助したという宇検村出身の知人から当時の経験について聞く機会もあった。「(対馬丸に)兄さんが乗っていたことを話したら、その方が『自分も何人か助けたことがある』と。まさかと思った。対馬丸に乗った人が奄美にも流れ着いたことは、宇検の人と話すまでは知らなかった」 遺族としての経験を家族や近しい知人以外に語ったことはこれまでなかったという守田さん。「私があまり思い出したくないからね。聞いてもらいたいとは思うけど」と胸の内を明かしたその表情には、80年がたっても癒えることのない悲しみがにじんでいた。
奄美の南海日日新聞