「世界一の人形遣い」吉田簑助さんに夢で叱られたい 人間国宝・桐竹勘十郎さん尽きぬ思い
人形浄瑠璃文楽の人形遣いとして、艶やかで繊細な女方(おんながた)の人形を遣って見る者を魅了した、人間国宝で文化功労者の吉田簑助さんが11月7日、91歳で亡くなった。この世に生を受けた日に初めて対面し、後に一番弟子となって簑助さんを生涯の師と仰ぎ続けた桐竹勘十郎さん(人間国宝)が、師匠への尽きない思いを語った。(聞き手 田中佐和) 【写真】人間国宝、吉田簑助さんの遣う「艶容女舞衣」のお園=平成24年5月 ■「大恩を感じています」 令和3年に引退されてからも「師匠が元気でいてくれてはる」というだけでものすごく安心感がありました。だからまだ気持ちが追いついていません。 一門の中でも私は特にお世話になった期間が長い。私が生まれたとき、父(二代目桐竹勘十郎)が産院に来られず、代わりに最初に来てくれはったんが父の弟弟子だった当時19歳の簑助師匠でした。私は未熟児で、師匠にはよく「お前小さかってんで。手の指なんかマッチ棒の軸くらいやった」と言われましたね。 「芸はどこをどう盗んでもらってもいい。盗んだものを自分のものにして、自分の舞台、自分の芸を作っていかなあかん」というのが師匠の教えで、言葉でおっしゃったり、手取り足取り指導なさったりする方ではありませんでした。師匠の機嫌が日に日に悪くなるのに、その原因である自分の芸の何が悪いのか分からず長く悩んだこともありましたが、苦労して覚えたことは一生もの。一番大事なことを教わったと、大恩を感じています。 師匠は私に対しては、「兄弟子から預かった息子やから、ちょっとでもましな人形遣いに」という気持ちをいつも持ってくださっていたように思います。平成15年、私の三代目勘十郎の襲名披露公演では、父が好きだった(「絵本太功記」の)光秀の人形を遣えと言ってくださったのは、本当にありがたかった。 私は非力で大きな人形を遣ってこなかったのですが、「この名前を継ぐなら、これくらい大きな立役を遣えないかん」ということで、50歳で一から学ばせていただきました。おかげさまで、大きな人形に対する苦手意識がなくなりました。 思い出深い役はたくさんありますが、やはり「曽根崎心中」のお初でしょうか。師匠の遣うお初が最後に死を覚悟して目をつむり、手を合わせたとき、すうっとお初の姿が半透明になって透けて見えたんです。私はお初の足を遣いながらその光景を見ていましたが、自然と涙が出た。あの瞬間をいまだにもう一回見たいと思う。私もあのお初を追い求めるけれど、できるはずもなくてね。