松本人志の影響力を感じさせた令和ロマン、「うまい」より「好き」と言われるバッテリィズ 人間としての総合力を見る大会となった「M-1グランプリ」
松ちゃんの影響力までも読み込んで勝った令和ロマンのしたたかさ 固有名詞に頼らず最大公約数の「設定」で戦う大衆性
キャラが好き、コンビ仲がいいから好き、ネタが尖っているから好き……あらゆる「好き」 を集めた量が多い漫才コンビが、最後に評価されるということかもしれない。 思えば昨年の松ちゃんは、よく「僕は好きですけど」という言い方をしていた。「面白いと思うけど」では、審査の基準を作ってしまう。けれども「好きです」なら、単なる主観にとどめることができる。自分以外の審査員、会場や視聴者にも余計な影響を与えまいと気遣っていたのだろう。それは必死の思いで這い上がってきたコンビに、できる限り公平な評価を与えるという、出場者への最大限のねぎらいではなかったか。毀誉褒貶の多い人ではあるが、全方位に細やかに目を配る松ちゃんを「好き」になる人が多かったからこそ、彼は長い間あそこに座っていたのだろう、と今年改めて感じたものである。 だから誰も口には出さないが、「松ちゃんがいたら何て言うだろう」、あるいは「松ちゃんがいなくても良いイベントにする」と、松ちゃんの影響力から逃れられない人もいたのではないか。その葛藤を嗅ぎ取ったヤーレンズの楢原さんが、「えー、じゃ、松本さん」と笑ってボケたのは良かった。ここにいない人のことをウダウダ考えねえでスパッと評価してくれよ、という潔さと切実さが詰まっていたからだ。 でも令和ロマンは松ちゃんの影を完全に拭い切れないことさえも前提の上で臨んだように見えた。「強い2本目」と「好き」の総量が勝負を左右するという、去年の松ちゃんの判断基準は説得力があった。だから大きな加点を狙うというより、穴のない緻密な構成とパフォーマンスを徹底したように思う。 去年は「行列(のできる法律相談所)をイメージして」とMC席にもたれかかったり、「おもろかったら何でもええやん」と体をくねらす吉本興業社員を演じたり、どこか島田紳助さんをおちょくっている印象を受けたくるまさん。吉本のレジェンドさえもネタにする振り切り方は、勢いある若手として鮮烈な衝撃を審査員にもお茶の間にも与えた。ただし今年はそうした攻撃性を減らした分、「なりたい名字」や「なろう系(タイムスリップ)」という時代性のある設定で会場中の「好き」を集めることに注力したのではないか。 今年のM-1の視聴率は18.0%(関東地区・関西地区は25.5%)、10代から50代まで男女問わずすべての層で個人視聴率もトップだった。真空ジェシカやヤーレンズのように、固有名詞を織り交ぜる手法は“刺さる”世代にはたまらないが、知らない世代は置き去りにしてしまう。例えば真空ジェシカは「武田鉄矢」の「人という字」ボケ、ヤーレンズは「石川遼」でボケたあたりで、若干会場のお客さんの笑いが薄いと感じた。どちらもボケ数がめちゃくちゃ多くバンバン笑いを取っていたので気にはならないが、最小公倍数の固有名詞ではなく、最大公約数となりうる設定を選んだ令和ロマンの方が、大衆性という意味でも評価しやすかった部分はあるだろう。 歌は世につれ、というが、今や「笑いは世につれ、世は笑いにつれ」。冒頭で紳助さんの「いつまでもM-1が夢の入口でありますように」という言葉が紹介されたことが物議を醸したが、不安のただ中にある日本の出口を作ってくれるのもまた、明るいキャラと笑いなのかもしれない。令和ロマンに、そしてすべての出場者に、心からありがとうと伝えたい。 冨士海ネコ(ライター) デイリー新潮編集部
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